
※本記事は、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』のネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)に該当する要素を含みます。未見の方はご注意ください。
■ジャンルミックスになりやすい、SFというジャンル
まだ映画会社にサラリーマンとして勤務していた頃、経済産業省の主催で、オーストラリアからシナリオ分析官を招いて開催された講習会に参加したことがありました。テーマはジャンル映画。講師は、アメリカ映画とは基本的にはジャンル映画である、ジャンル映画にはお約束があり、ジャンル映画を作るならそのお約束はまっとうしなければならないと語った上で、ただ昨今はジャンルミックスという手法を取ることが主流になっている、ととりわけ強調していました。ジャンルミックスとは、文字通り、ジャンルとジャンルの掛け合わせです。今回お話しする『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(フィル・ロード&クリス・ミラー監督)もそのひとつだと言えます。そう、SFはジャンルミックスになりやすいジャンルなのです。
SFというのは、とりわけ映画の場合、物語上のお約束がほとんどないに等しいジャンルなのです。SF映画が守らなければならないお約束は、SFらしい外見を整えること、それっぽいデザインを施すことにつきます。たとえば、宇宙、異空間、スペースシップ、ミクロ圏、人造人間、時空を操る装置、意志を持ったコンピュータなど。相対性理論や量子もつれや超弦理論は出てこなくてもいいけれど、いまのところ日常ではお目にかかれるはずのない(また科学的な発展が順調に進めば可能となるような)ヴィジョンを提示することが、『月世界旅行』(1902、ジョルジュ・メリエス監督)からのお約束なのです。

■SFとしては異例な構造の『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
その一方で、物語の構造はよそから拝借してくればよいということになっているらしい。
「スター・ウォーズ」のストーリーがアーサー王などの神話を参照していることは前にも述べました。『エターナル・サンシャイン』(04)は僕の解釈では『レディ・イヴ』(41)をSFっぽく焼き直したロマンチックコメディです。『ゼロ・グラビティ』(13、アルフォンソ・キュアロン監督)は遭難ものの構造を借りてきています。『運命を分けたザイル』(03、ケヴィン・マクドナルド監督)とそっくりですね。
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の物語のタイプはさまざまに読み解けるでしょう。そして、よそから拝借したその型を絶妙に崩しているのが特徴です。まずは、主人公グレース(ゴズリング)が宇宙空間で異星人と出会うことから、ファーストコンタクトものと呼びたくなるのですが、『メッセージ』(16、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督)や『未知との遭遇』(77、スティーヴン・スピルバーグ監督)や『コンタクト』(97、ロバート・ゼメキス監督)などと比べるとそう呼ぶのに違和感を感じてしまいます。では、本作のSF的な意匠を取っぱらえば何が現れるのでしょう。それは、バディもののブロマンスではないでしょうか。そう僕が感じるのは、ファーストコンタクトものにしては、<知的レベルの設定>が妙だからです。基本的に、ファーストコンタクトものでは、地球人よりも宇宙人の知的レベルを高く設定します。異星人は人類を超越した、人類に啓示を与える存在として描かれ、そのような存在とコンタクトすることによって人類(主人公)に変容が起きる。ところが、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の主人公グレースが出会う異星人ロッキー(石のようだから)は相対性理論も放射線も知りません。そのくせ材料工学や観察眼には優れている。グレースは分子生物学の知識は豊富ですが、ロッキーのような超人的な計算能力や作業スピードはありません。この二人がタッグを組んで、自分の星を絶滅から救おうとするのです。SFとしてはかなり異例の構造です。
■“選ばれし者型”の主人公、グレース
もうひとつ、旅立ちの設定がまた面白い。物語というのは主人公が日常から非日常に向かって旅立ち、帰ってくるまでを描くのだ、とこれまでなんども口を酸っぱくして言ってきたわけですが、この旅立ちには、いくつかのタイプがあります。僕は大きく、もともと旅立ちを待望していた“旅立ち待望型”と、任務を帯びて旅立つ“ミッション遂行型”と、勝手に選ばれてしまい無理やり旅立たされる“選ばれし者型”の3つに分けています(本当はもっと細かいのですがここではそうしておきましょう)。“旅立ち待望型”の主人公は、ここではないどこかを夢想して旅立つのです。この気分を説明するのに、谷川俊太郎の「GO」という詩ほど相応しいものもないので、冒頭数行を引用しましょう。
さあ。いこう。何処へいこう。
と 我が友詩人の藤森安和君は云った
さあ いこう
ひとまずいこう とにかくいこう
ここはしめっぽい ここはくさっている
ここはごきぶりで一杯だ ここは顔のない他人で一杯だ
ここはいかさない
だからいく いくんだ とにかくいく
1960年代後半から1970年代半ばまで、アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood)と呼ばれる映画群ではこのような気分が横溢していました。もちろん、こんな気分で宇宙旅行をすることはできません。宇宙飛行士の旅立ちは、“ミッション遂行型”のはずなのです。ところが『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は“選ばれし者型”になっています。このミッションを担うはずだった者が不慮の事故で死んでしまい、彼らを教育していた主人公にお鉢がまわってきたというわけです。しかも、太陽光の減衰による極端な寒冷化から地球を救うという主人公に課せられたミッションは、その成功の確率はきわめて低く、生還する確率が0%というとんでもないものです。

それでも、本作のトーンに悲壮感はなく、どことなくユーモラスなのは(ヘイル・メアリーには「やけくそ」とか「やぶれかぶれ」の意味があるそうですが、シリアスなものにこんなプロジェクト名はつけないでしょう)、バディもののスタイルを採用しているからでしょう。
■基本の物語構造となる、「非日常」から「日常」への帰還
さて、旅立ちがなかなか風変わりであることを紹介しましたが、本作の最大の特徴は帰還のほうにあります。

SF映画で宇宙飛行士を主人公にした場合、基本的には地上から宇宙に行き、地球に帰ってくるまでを描きます。そしてこれは、<日常⇒非日常⇒日常>という物語の基本フォーマットにぴたりと当てはまっています。「指輪物語」のJ・R・R・トールキンは代表作「ホビットの冒険」に“There and Back Again”とつけています。主人公ビルボ・バギンズが平穏な「日常(袋小路屋敷)」から「非日常(冒険の旅)」へと足を踏み出し、再び「日常」へと戻ってくる構造がこのサブタイトルに象徴されています。

『ファースト・マン』(18、デイミアン・チャゼル監督)は、訓練、出発、月での活動と離陸、大気圏への突入、海上への着水までをていねいに描いています。『ゼロ・グラビティ』はいきなり宇宙からはじまって、旅立ちを端折っていますが、ほぼ全編を通して帰還を描いていると言えるでしょう。帰って来れないということは悪夢に閉じ込められることを意味するのです。無重力という「究極の非日常」から、重力という日常性の再獲得、水・泥・土という生命の根源的な日常へと戻ってくることではじめて映画は幕を閉じられます。帰還した彼女が土を掴むとき、その感触は地球を出る前とはちがっているはずです。トールキンは、物語(特にファンタジー)において、帰ってきたときに「見慣れたはずの世界を、新鮮な驚きをもって再発見すること」(回復/Recovery)が大事だと述べています。
■ラストでのグレースの選択を、どう捉えるのか
ところが、驚いたことに、主人公のグレースは帰還しません。といって悪夢のようなエンディングかというとそうでもない。もちろん、クライマックスでは主人公は葛藤します。
自分は地球へ帰還すれば、ロッキーは死ぬ
ロッキーを救えば、自分は地球に帰れない
そして、この映画のラスト近くで、グレースはロッキーを救い、異星人としてロッキーの星で生きることを選択するという、思い切ったツイストが仕掛けられます。

このような“荒業”が可能なのは、主人公のキャラを薄くしてあるからでしょう。実は、グレースに関する情報量は意外と少ない。優秀な学者だったのに、権威をこき下ろしたために学界から追放され中学教師の身に甘んじていると設定されてはいますが、生徒との濃密な関係が描かれるわけではなく、結婚もしていなさそうだし、元カノの影もきわめて薄い。彼と地球との間に太い紐帯を見つけることはできません。
たとえば、妻が身ごもっている最中に、強引に地球から引き剥がされ宇宙に飛ばされたとしたら? 右の葛藤はさらに複雑になるでしょうし、同じ選択をしたとしても、明るいエンディングにはなりそうにありません。『ゼロ・グラビティ』の主人公であるライアン(サンドラ・ブロック)は独り身で、宇宙を彷徨いながら同僚のマット(ジョージ・クルーニー)が「誰か特別な人はいないの? 空を見上げて君を想っている人は?」と尋ねると、4歳児の娘を事故で亡くしたことを打ち明け、それいらい自分はずっと仕事に行って夜は車を運転しているだけだと告白します。つまり、地球にいながらも宇宙を彷徨っているような生活をしていたわけです。けれど、そんな彼女もやはり生きたいと願い、そしてなんとか帰還を果たし、彼女が土を掴んで立ち上がるところで映画は終わります。また、『ファースト・マン』は、最初に月に降り立ったニール・アームストロング(ライアン・ゴズリング)が主人公が妻ジャネットと検疫室のガラス越しに再会するところで幕を閉じる。これらに比べると本作の主人公の地球との絆はやはり軽く細いと言わざるを得ません。

では、これはなにを意味するのでしょうか。グローバリゼーションによって、生まれ故郷を離れ、自分らしく生きられる場所にどんどん人は移動していくだろうという予測があり、すでにそうなりつつあるとも言われます。また一方で、このような状況に刺激され、ナショナリズムが勃興しつつあると言う人もいます。グレースの選択は「逃避」なのか「成熟」なのか、バディ(=他者)こそが新しい「日常」となりうるか。――これはなかなか難しい問いです。本作の結末にノレるかノレないか、それは観客が自分のアイデンティティの基盤をどこにおいているかによるのかもしれません。
文/榎本 憲男
