今年上半期最大の話題作となったNetflix配信映画『新幹線大爆破』(樋口真嗣監督)。この作品が50年前に作られた東映映画が原作であることはよく知られている。オリジナル版は今も高い人気をほこり、閉館に伴う“さよなら 丸の内TOEI”のイベントでは、公開日となる1975年7月5日から、ちょうど50年目となる2025年7月5日に、Netflix版を監督した樋口真嗣監督とフリーアナウンサー笠井信輔が参加する特別上映イベントが行われた。
新幹線に仕掛けられた爆弾は、時速80キロを下回ると爆発する。高倉健が鬱屈した犯人グループの中心人物を演じ、宇津井健が演じた運転指令長は、冷静沈着に運転士 (千葉真一) へ指示を出す。同時進行で犯人を追いつめる警察の捜査と、犯人グループの過去が重なり合う多重構造の構成は、ドラマとスペクタクルとパニックを見事に一体化し、この時期に数多く製作されたパニック映画のなかでも突出した1本となった。
50年前の東映で、なぜこのような画期的な映画が誕生したのだろうか。『新幹線大爆破ネガスキャンリマスターBlu-ray』の発売に際して、その製作過程を追いかけてみたい。
東映1974
『新幹線大爆破』(1975)の企画がスタートしたのは1974年だった。まず、この時期の東映が、どのような状況にあったかを見てみよう。
前年、東映は大きな転換期を迎えていた。10年にわたって観客の支持を集めてきた〈任侠映画路線〉に陰りが見え始めており、新たな路線を求める中で、飯干晃一が「週刊サンケイ」に連載を始めた広島やくざ抗争史の映画化が持ち上がる。様式美に満ちた任侠映画の真逆を行く、欲望と裏切りを実録タッチで描いた『仁義なき戦い』の登場である。1973年1月13日に公開されると、たちまち大ヒットとなり、直ちに続編の製作が決定する。同年中に2作目『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973)、3作目『仁義なき戦い 代理戦争』(1973)が公開され、観客動員数は作を追うごとに増加し、学生、女性にも観客層が広がっていった。主演の菅原文太は、これで東映トップ・スターに登りつめた。
『仁義なき戦い』シリーズの大ヒットによって、任侠映画に取って代わって実録映画が次々に企画されるようになり『やくざと抗争 実録安藤組』(1973)、『実録 私設銀座警察』(1973)などが矢継ぎ早に公開されたが、最も強烈なのが、高倉健主演の『山口組三代目』(1973)だった。『仁義なき戦い』では関係者が健在なため、名前を変えるなどの配慮がなされていたが、こちらは実在の組の名前をタイトルに冠し、組長、幹部らの名前も実名のままという究極の実録映画となった。もっとも、内容は旧来の任侠映画の流れを汲んだものになっていたが、 『山口組三代目』は『仁義なき戦い』シリーズを上回る大ヒットとなった。
明けて1974年――4作目となる『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974)が公開された。当初はここで打ち止めの予定が、人気が衰える気配はなく、シリーズは『仁義なき戦い 完結篇』(1974)まで延長されることになった。
一方、『山口組三代目』の続編は、警察・マスコミからの批判が大きく、山口組の名は外されて『三代目襲名』(1974)の題で公開された。
1974年10月12日付の「週刊映画ニュース」によれば、この年の上期における東映映画の配給収入上位5本は、①『仁義なき戦い 完結篇』(5億円)、②『三代目襲名』(4億8千万円)、③『山口組外伝 九州進行作戦』(4億2千万)、④『殺人拳2』(3億円)、④『直撃! 地獄拳』(3億円)となっており(括弧はその時点での配給収入額)、実録やくざ映画と空手映画という東映でしか作れない独自カラーが数字にも色濃く反映されていた。
問題は、①~③が上期で姿を消すことにあった。『仁義なき戦い』シリーズは完結し、山口組シリーズも、これ以上の続行は不可能と判断され、1974年末には正月映画に予定されていた3作目となる『山口組三代目 激突篇』の製作が中止になってしまう。
東映にとって、新たな路線開拓は喫緊の課題となっていた。もちろん、すでに新たな企画は複数動いており、『仁義なき戦い』シリーズの深作欣二監督と、脚本の笠原和夫コンビによる実録映画の変奏曲とも言うべき『実録共産党』という強力な変化球も準備が進んでいた(最終的に未映画化)。
そうした中で、半期に1本程度の製作を目安に、社会的な事件を題材にした企画が持ち上がる。プロ野球黒い霧事件、連続企業爆破事件、別府3億円保険金殺人事件など、同時代の事件を取り上げる野心的な企画だった。
そこから具体化したのが、1975年12月10日に公訴時効が迫る三億円事件の映画化企画『真説・三億円剥奪事件』(公開題は『実録三億円事件 時効成立』)。そしてもう1本、同時代のパニック映画ブームも念頭に、当時頻発していた新幹線への爆破予告を踏まえた企画が立ち上がる。それが『新幹線爆破魔を追え!』だった。
『新幹線爆破魔を追え!』始動
東映へ1962年に入社し、東京撮影所製作部へ配属された坂上順は、1974年当時は32歳。プロデューサーとしては、高倉健主演の『ゴルゴ13』(1973)を前年に担当したばかりで駆け出しの存在だった。
東映社長の岡田茂は、アメリカのパニック映画ブームを前にして、うちでも何か出来ないかとプロデューサーたちに発破をかけていた。その中で出てきたのが、1974年末に全米公開が決定していたパニック映画大作『タワーリング・インフェルノ』(1974)に当て込んだ、千葉真一主演の『燃える三十六階』。ビル火災に立ち向かう消防士を主人公にしたアクション活劇だが、この企画は進展しなかった。
坂上は、日本独自の設定として新幹線を思いつく。新幹線でどうパニックを起こすか。そこで参考にしたのが、アメリカのTV映画『夜空の大空港』(1966)だった。旅客機に爆弾が仕掛けられた。それも高度1万フィート以下のある高度まで下がると自動的に爆発するという。燃料が尽きかける中で、機内の爆弾を見つけ出すことはできるか――この秀逸な設定は、高度×時間という縦軸と横軸を組み合わせたところにある。飛行機が高度を下げることを禁じられた上に、ある時間まで来ると燃料が尽きるという2つのサスペンスが巧みに組み合わされ、極上のサスペンスとなった。
『夜空の大空港』は、1972年2月20日に「日曜洋画劇場」(テレビ朝日系)で初放送され、視聴率は20.7%を記録した。好評だったせいか、1974年8月4日にも同枠で再放送(視聴率は15.1%)されている。
坂上は、この設定を新幹線に応用した。つまり、新幹線が一定の速度以下になると、仕掛けられた爆弾が作動するというというわけだ。坂上は「〈高度〉を〈速度〉に変えただけのことなんです。いわばパクリ。僕のオリジナルでも何でもないんですよ」(「関根忠郎の映画惹句術」)と謙遜するが、〈高度〉を〈速度〉に変えることがコペルニクス的転回点となり、和製パニックアクション映画の傑作を生む起点となった。本作に原案としてクレジットされている加藤阿礼は、坂上のペンネームである。
このとき付けられた題名は、『新幹線爆破魔を追え!』。
「映画時報」(74年10月号)で、東映企画製作部長の登石雋一が、本作の企画が進んでいることに触れ、「新幹線は日本にだけしかございませんし、ちょうど博多までの開通も控えておりますので、いろいろな意味でそういうタイムリーな問題もあると思います」と語るように、1975年3月には東京―博多間の新幹線が開業することになっており、それに合わせて公開すれば、話題になるに違いないという目論見もあった。
1974年5月、企画にゴーサインが出た。佐藤純彌のもとへ監督オファーが来たのは、監督作『ルパング島の奇跡 陸軍中野学校』(1974)が完成して間もない9月のことだった。さっそく鉄道関連の資料を読み漁り、新幹線のメカニズム、システムを研究した佐藤は、爆弾が作動する速度を、時速80キロ以下と設定した。その理由をこう語っている。
「調べてみると、新幹線に故障があれば、とにかく全部止めて調べるというのが大原則なんですね。だから逆にプロデューサーと、止まれないとしたらどうだろうって話になりまして、それから分岐点を通過するときの制限速度が70キロなので、80キロという設定にしたんです」(「映画情報」75年8月号)
11月に脚本家の小野竜之助へ脚本執筆の発注があったときには、坂上と佐藤による原稿用紙20枚ほどの梗概が出来上がっており、すでにこうした初期設定が盛り込まれていた。そこから約1か月かけて、佐藤と小野が共同で脚本を書き上げていった。
初稿脚本では犯人側の描写は少なく、新幹線車内のパニック描写と、総合指令所で指令長が犯人とやり取りしながら、次々に襲いかかってくる危機を回避しようとする描写、そして警察の捜査が中心になっていた。爆発物をどのようにして除去するか、トリッキーな手段がいくつも考案されていた。
また、新幹線の乗客に一家心中で生き残った男、大阪へ遠征に向かう長嶋茂雄以下の巨人ナイン、名古屋場所へ向かう横綱・北の湖、西城秀樹なども初期の時点では書き込まれていた。完成した映画と違って、乗客同士が協力しあう設定もあり、妊婦が車内で無事に出産するくだりも存在した。なお、速度を緩めることが出来なくなった新幹線の向かう先に、故障車が立ち塞がる設定は完成した映画にも残されたが、この時点では以降も停電をはじめ、次々に難関が押し寄せることになっていた。この脚本をもとに、キャスティングも開始されることになった。
