高倉健と千葉真一
1975年1月22日の「報知新聞」は、〈東映、新幹線舞台に恐怖映画〉と、早くも『新幹線爆破魔を追え!』の製作を報じている。記事では配役について、「犯人グループの主役に菅原文太、共演陣にも千葉真一、松方弘樹、高橋英樹のほか演劇、テレビなどの人気スターによるオールスターキャストを組み、二月下旬からクランクイン、三か月をかけて撮影ののち、この夏に公開の予定」と記されている。このとき、報じられたキャストで実際に映画へ出演したのは、千葉のみだった。
プロデューサーの坂上順は最初から、高倉健を意中の人としていたが、会社としては、製作費が膨張することが予想された本作に、ギャラが高く、興行力が落ち始めた高倉よりも、ギャラがその半額程度で済み、人気沸騰中の菅原を起用した方が得策という判断があったようだ。
しかし、犯人役の菅原は病気療養(実際は東映との軋轢によるボイコットという見方もある。『資金源強奪』など、この時期は文太主演企画が相次いで変更になっていた)を理由に出演を固辞。以降、配役は二転三転することになる。
完成した映画では新幹線の運転士役を演じた千葉真一は、犯人役としてオファーを受けていたと明かしている。おそらく、菅原の出演が無くなり、格上げの形で犯人役が回ってきたのだろう。
「あの健さんの役をね、俺にやらしてくれるって言ってたんだよ。東映は。『新幹線』はお前の作品だって言ってたんだよねえ。ま、いいけどさ。(略)健さんがやるっていうんで、俺はね、納得した。あっ、健さんが、俺の尊敬する人がやるんだと。(略)僕も一生懸命にね、健さんだからこそ、やらしてもらった」(「東映映画情報・無頼」第3号)
高倉の出演は、坂上の粘りが功を奏した。深夜、社長の岡田茂に直訴して、高倉へのオファーを熱望したのだ。その情熱に、岡田は出演交渉を許諾する。ただし、条件をつけた。高倉の出演料を半分まで抑えることが出来るなら交渉しても構わないというのだ。
これは厳しい条件だった。スターのギャラは人気のバロメーターであり、低予算映画でも他の条件は譲歩しても、ギャラだけは落とさないという俳優は多い。これでは高倉に落ち目と直言するようなものである。
それでも、坂上は〈健さんと一緒にやりたい〉という一念で交渉に向かった。
もちろん、それで高倉が直ぐに了承してくれるわけではない。脚本を読み、気に入ってくれなければ出演は叶わない。
高倉は脚本の面白さに舌を巻いた。だが、ギャラの半額交渉に対しては、「機関車はな、石炭がなけりゃ走れないんだぞ」という言い回しで不満を表明したという。やがて、その条件を呑む代わり、興行収益から20%の成功報酬を求めた。1976年に東映を退社することになる高倉は、その後に他社で出演した『八甲田山』(1977)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977)でも成功報酬契約を結んでおり、本作はそのための試金石とも言えた。
それにしても、20%という数字はかなり大きいが、東映はあっさりと了承し、高倉の出演が決定する。後に坂上は「東映スピードアクション浪漫アルバム」(徳間書店)の取材に応えて、このとき高倉から「パーセンテージなんていうのは会社が全部数字を握ってるんだから、“経費引いたらこれです”って言われたら、俺たちは何も言えないんだよ。だけど、20%取ったってことが俺にとっては石炭になるんだ」と言われたと証言している。
黒澤明が黒澤プロダクションを作って東宝と提携していた頃、どれだけ大ヒットを放とうとも、経費や前借り分を引いた後では、さしたる金額を手に出来たわけではないと愚痴ることがあったが、高倉はそうした仕組みを理解したうえで、成功報酬契約を東映と行った実績を残そうとしたのだろう。
1976年に行われた「東映映画情報・無頼」(第3号)のインタビューで、千葉真一は高倉についてこう語っている。
「やる時はあの人が一番早いんじゃないですか。大きなものをやる時にはね。とにかく世界に目を向けて歩けって、十何年前に俺に言ったのは高倉健なんですよ。僕は健さんて、そいういう感覚が好きでね。(略)今も健さんとちょくちょく会っていろんな話してますけども、お前の今のやり方は間違ってないと思う。ま、そういうアドバイスしてもらってんです。ただ、やっぱり俳優は安い金で動いちゃあいけないぞ。もう、いいと思った時はちゃんとしたもので、それからくだらない作品で仕事はするな。それだけなんですよ」
この時点では高倉の次なる動き――『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』への出演は明らかになっていなかったが、東映から離れてフリーとなった高倉は、一回り大きな存在になっていった。千葉に助言するかたちで、高倉は自身の置かれた状況を正確に分析していたことがうかがえる。その意味で、本作でギャラ半額の見返りとして成功報酬を約束させたことは、東映を離れた後の出演交渉の席で、それが実績となることを見越していたのだろう。本作が後に世界へ向けて走り出すことも含め、高倉の作品選択眼と先見の明は際立つものがあったと言えよう。
東映vs国鉄
高倉健の主演が決まったことで、宇津井健、千葉真一、山本圭をはじめとするキャスティングが続々と決まっていった。東映映画では珍しい宇津井、山本に加えて竜雷太、藤田弓子といった顔ぶれについて監督の佐藤純彌は、「おもしろいね。新しい俳優とやると、俳優同士で新しい振幅というか共鳴があってね」(「東映映画情報・無頼」第2号)と、配役の妙を語っている。
さらに、同じ誌面で佐藤は「(引用者注:普段は)脚本が出来てからクランク・インまでの間がないからいろんな俳優を使えないという、自分の手持ちの俳優であいている者を次・次という具合になってしまって、どうしても固定化してしまうような所がある」と従来の東映映画における問題点を挙げているが、では、なぜ『新幹線爆破魔を追え!』では、こうしたキャスティングが可能になったのか。それは、脚本の完成から撮影に入るまで時間が空いたせいだった。
1975年1月22日の「報知新聞」で、製作開始にあたって東映社長の岡田茂はこう語っている。
「ものがものだけに国鉄さんの全面協力がない限り製作不可能だが、こちらのねらいは人命救助にポイントをおいたヒューマンな映画を作ることにあり、その辺を詳しく説明して是非とも実現させたいと思っている」
だが、協力要請は全く話にならなかったようだ。東映東京撮影所長の幸田清によると、「今年(1975年)1月、国鉄サンを刺激してはというんで、タイトルも『爆破魔を追え』にして(脚本の)第1稿をお見せして協力を要請したら、ケンもホロロ」(「週刊ポスト」75年7月11日号)だったという。
事実、国鉄公安部長は「ことし初め協力依頼があったが、好ましくないので断った。とくに、新幹線の博多開通直前に公開する計画ということで非常に迷惑な企画だった」 ( 『毎日新聞』75年4月25日・夕刊)と語っている。
確かに取り付く島もないという感じである。ただし、東映側が最初から国鉄の協力が全面的に得られるという前提に立っていたかと言えば、疑わしい。前掲の岡田の発言からして、本来ならば協力を得られない可能性が高いが、なんとか協力してもらいたいというニュアンスに思える。
撮影所内でも、こんな企画は無理だろうというムードが漂っていたという。宣伝を担った山本八州男は、「当時、事故続出で何にかと世間の悪評をかっている新幹線と、例の企業爆破のニュースで騒然としている時、そんな映画が作れる筈がないと誰もがおもった」(「大泉スタジオ通信」75年7月25日)と記している。
実を言えば、筆者は〈国鉄非協力による撮影中止の危機〉自体が、宣伝のために大仰に喧伝されたのではないかと思っている。監督の佐藤自身、「国鉄の協力も半々だろうと思って、それほどあてにしていなかったんだけど」(「東映映画情報・無頼」第2号)と1976年当時に発言しているように、それほど切羽詰まったものではなかったのではないか。
1月24日に脚本を渡された撮影の飯村雅彦によると、2月に入ってから佐藤や美術監督の中村修一郎(中村州志)と共に打ち合わせを始めた当初は、「われわれはある程度の撮影(駅関係、一部車内撮影)は国鉄の了解のもとにできるのではないかという推測の上に立ってプランを押しすすめていた」(「映画撮影」75年9月号)という。つまり、駅構内、ホーム、客車ぐらいは実物を借りて撮影を行えるだろうという希望的観測があったというのだ。佐藤も、「新幹線を借り切って、博多まで三、四回も往復すれば撮れちゃうんじゃないかって思ってた」(「映画情報」75年8月号)という。
だが、全面的に国鉄の協力を得られたとして、意図するような映像が撮れるとは限らない。撮影の飯村は、前掲の「映画撮影」で次のように記している。
「本物の新幹線が使えたところで、キャメラ・ポジションは厳しく限定されるわけで、あのスピードで横切られた場合の圧力は大変なもので、線路の横などでは耐えられないくらいすごいものであった(テストで数カット撮った感想である)。そうなると、当然、キャメラ・ポジションは不本意な位置を選択せざるを得なくなり、その結果、フラットな新幹線列車の走行の羅列にもなりかねない」
実際、前半の見せ場となる浜松駅付近で上り線を走るひかり20号と、下り線を走るひかり109号がすれ違う瞬間にポイントを切り替え、ひかり109号を分岐点で上り線へと滑り込ませようとする息詰まる場面にしても、あるいは後半の救援に向かった新幹線との並行走行なども、実物を使えたところで再現するわけにはいかないだろう。編集で誤魔化せば、途端にチャチなものになる。こうした場面では、ミニチュアを製作することが、あらかじめ決定していたと思われるが、一部のカットを特撮にするのと、全面的に特撮を用いるのでは、映画の作り方が変わってくる。
また、駅構内、運転台、客車、線路内にしても、実物を借りて撮るか、セットを組むかでは、美術費用も大きく変わることになる。製作費が膨らむことは、製作中止の大きな理由になり得るため、どこまで協力を得られるかは、映画作りの成否を左右する面がある。国鉄への協力交渉はなおも続いていた。東映東京撮影所長の幸田清は、「第2稿は鉄道Gメンの活躍を前面に押しだし『大捜査網』というタイトルでご意見をうかがったら、とんでもないでしょう」(「週刊ポスト」75年7月11日号)と、新幹線や爆破を題名から引っ込めてみたものの相手にされなかったと明かす。
この『大捜査網』の脚本は、その後もダミーとしても役立ったようだ。進行助手を務めた瀬戸恒雄によると、「鉄橋の下で撮影したい場合など、そのままのタイトルでロケ申請すると、シナリオを読んでもらう前に門前払いとなってしまう。そこで『大捜査網』という題名のシナリオを30部ほど印刷し、ロケ交渉でそのシナリオを先方に渡し、許可を取っていました」(「東映の軌跡」)という。
1975年2月半ば、国鉄からの協力は一切期待できないことが明白となり、2月末クランクイン予定が、2ヵ月にわたって順延されることになった。緊急停車するか運行を進めるか、東映は決断を迫られた。
