一気に生活が崩壊する危機
新たな職場で二カ月に1度のインターバルで治療を行い、現行制度の自己負担上限額を支払い続けて、四回目の治療から多数回該当が改めて適用される場合を示したのが[図1]だ。
現行制度の上限額約8万円に3回到達した後、4回目の治療からは支払いが44,000円に抑えられていることを示しているのが下の方の階段状になっている線だ。
一方、政府が最後までこだわった2025年8月引き上げ案が実施されていた場合([図1])、一月や三月、五月の支払いが82,000円や85,000円などであったとすると、〈見直し〉案の新たな自己負担上限額の約88,000円に到達しない。つまり、〈見直し〉案の上限額に届かない通常の窓口三割負担として、治療のたびに8万数千円を支払い続け、以前なら適用されていた自己負担上限額もその後の多数回該当も適用されなくなる。
要するに、転職によっていったん多数回該当がリセットされた後に政府〈見直し〉案が実施されていたならば、ふたたび多数回該当の適用を受けるどころか、そもそも高額療養費制度の基準にすら到達できない状況が現出していた、というわけだ。
せっかく好条件の職場に転職したというのに、治療のたびに自己負担上限額に届かない8万数千円を毎回払い続けなければならないのであれば、あっという間に生活は困窮してしまうだろう。
それを避けようと思えば、保険者が切り替わってしまう原因の転職をそもそも諦める以外に選択肢はない。だが、たとえば派遣労働者など、職場を替わることが珍しくない労働環境でこの制度を利用している人々の場合は、容易にこの落とし穴にはまってしまうことが想像できる。
ごくわずかに見える自己負担上限額の引き上げであっても、高額療養費制度そのものが抱えるバグのために一気に生活が崩壊する危機に瀕してしまう可能性は、このような事例でおわかりいただけたと思う(このバグを解消する手法のひとつとして、一時凍結後の2025年12月末に発表された新たな〈見直し〉案では年間上限額の設定が提示された。
ちなみに、政府〈見直し〉案がもしも本当に導入されていた場合、東京大学大学院・五十嵐中特任准教授(医療経済学)が健保組合と国保に加入する70歳未満の約116,000人分の2022年度診療報酬明細書(レセプト)データを国保と健保組合の全4900万人に外挿した計算によると、高額療養費制度の適用を受けた約187万人のうち、少なくとも約84,000人が制度の適用対象外となり、全体の73%の約136万人が従来よりも負担増になっていた、という推計が得られたという*4。
文/西村章
註
*1「『高額療養費制度』、政府の年収などに応じて負担額を引き上げる方針に『納得できない』56% 3月JNN世論調査」TBS NEWS DIG、二〇二五年三月三日。
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1762791?display=1
*2「2025年3月 電話全国世論調査 質問と回答」、「読売新聞」二〇二五年三月一七日。
https://www.yomiuri.co.jp/election/yoron-chosa/20250316-OYT1T50135/
*3「2025年3月定例全国調査」朝日新聞世論調査データベース。
https://digital.asahi.com/yoron/database/#/chosa/M20250315B70B9
*4「高額療養費の見直し、患者の7割以上が『負担増』試算…循環器疾患・糖尿病など幅広く影響」、「読売新聞」二〇二五年二月二六日。
高額療養費制度 ひろがる日本の〈健康格差〉
西村 章
2026年4月17日発売1,155円円(税込)新書判/288ページISBN: 978-4-08-721407-9医療費が高額になった場合、自己負担額を一定に抑える「高額療養費制度」。
自己免疫疾患の治療で長年この制度を利用してきたジャーナリストは、2024年冬に政府が発表した「改悪」案に不安と憤りをおぼえ、取材を開始する。
疾患当事者や研究者、政治家などの証言が浮き彫りにしたのは、健康に「格差」がある日本社会の現状や、セーフティネットとして十分に機能せず、〈世界に冠たる〉とは到底いえない医療保険制度の姿だった。複雑で入り組んだ高額療養費制度の問題を、一般書として初めて平明かつ多面的に解明する!
◆目次◆
第1章 高額療養費制度とは何か
第2章 part1 政治的・財政的背景から読み解く〈見直し〉案
第2章 part2 患者団体は〈見直し〉案凍結と変更をどう実現させたのか?――天野慎介氏に訊く
第3章 2024・2025年の〈見直し〉案をひもとく――安藤道人氏に訊く
第4章 高額療養費制度に潜む「落とし穴」を検証する――五十嵐 中氏に訊く
第5章 「魔改造」を施された日本の医療保険制度と高額療養費――高久玲音氏に訊く
第6章 part1 司法の視点から高額療養費制度を検証する――齋藤 裕氏に訊く
第6章 part2 立法の視点から高額療養費制度を検証する――中島克仁氏に訊く
第7章 「健康格差」解消のために、どのような医療保険制度を構想すればよいのか?――伊藤ゆり氏に訊く
第8章 大局的な視野から日本の医療保険制度と高額療養費制度を考える――二木 立氏との一問一答

