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「教え込みすぎたら選手は育たない」女子高校野球監督・野々垣武志の“腹八分”指導論【死ぬ前にやっておくべきこと】

「教え込みすぎたら選手は育たない」女子高校野球監督・野々垣武志の“腹八分”指導論【死ぬ前にやっておくべきこと】

女子高校野球監督・野々垣武志(C)週刊実話Web

村瀬秀信氏による人気連載「死ぬ前にやっておくべきこと」。女子高校野球監督・野々垣武志をインタビュー(中編)。女子高校野球に対する熱い思いをたっぷり語っていただいた。

「監督向きじゃない」野々垣武志が決断した新たな挑戦

野々垣武志は1971年、奈良県に生まれた。

少年時代から野球一筋。清原・桑田に憧れて野球の名門・PL学園に進んだ。先輩には2つ上に立浪和義、1つ上に宮本慎也。のちにプロ野球を代表する名手たちが内野の同じポジションにひしめく環境と地獄の寮生活。それでも野球自体は一度も苦しいと思ったことがない。

PLの全体練習は3時間しかない。だが、PLの真髄はその後にあった。夜間の自主練習。自分の頭で考え、自分の課題を見つけ、自分で克服する。誰に言われるでもなく、30分でも1時間でもバットを振り続ける。それだけでは飽き足らず、部員に隠れて早朝のグラウンドで60㌔のバーベルを担いでダッシュする秘密特訓を課すほど、野々垣は野球が好きで好きでたまらなかった。

「PLって考える野球なんですよ。全体練習でノックを受けても一人5本で時間がなくなる。でも自主練なら30分全部自分のもの。しかも自分でこうしようああしようって考えてやるから、うまくなるんです」

’89年、ドラフト外で西武ライオンズに入団。プロの世界でも野々垣は考え続けた。一軍に上がれば周囲の選手の動きを目で盗み、二軍に落ちればひたすらバットを振った。

広島時代、可愛がってくれた先輩の金本知憲から「タケシみたいに野球ができればいいな」と言われたことがある。苦しみながら道を拓くタイプが多いプロの世界で、野々垣は野球少年のまま大人になってしまった稀有な男だった。

もう一つ、野々垣には指導者としての武器があった。一度見た映像が全部頭に入る。文字は覚えられないが、人の動きだけは忘れられない。その特殊な記憶力は、選手としてよりも後に指導者として花開くことになる。

台湾で現役を退いた後、桑田真澄の野球教室で子どもたちを教え、清原和博の運転手を務め、飲食店の支配人もやった。だが結局、グラウンドに戻ってきてしまう。野球が好きだとか、未練があるとか、そういう簡単な話ではない。野球しかできない人間だったのだ。

転機は埼玉西武ライオンズ・レディースの打撃コーチ就任だった。女子野球の世界に初めて足を踏み入れた野々垣は、ここで自分の指導が通用するという手応えを掴む。そして2022年、長野県の佐久長聖高校に女子硬式野球部が新設されるという話が舞い込んだ。縁もゆかりもない土地。だが野々垣は迷わなかった。

「監督って僕のイメージじゃないんですよ。どちらかというとコーチタイプ。技術を教えるほうの人間です。だから監督をやるっていうのは、僕にとってすごい決断だった」

死ぬ前にやっておくべきこと】アーカイブ

女子高校野球監督・野々垣武志(C)週刊実話Web

指導方針は「教えすぎない」

’22年春、佐久長聖高校女子硬式野球部が産声を上げた。一期生はわずか6人。キャッチボールすらやったことのない部員がいた。ボールの握り方から教えた。投げ方、捕り方、バットの持ち方。何もないところからのスタートだった。

だが、2年目になると景色が変わりはじめる。野々垣の評判を聞きつけた中学生たちが、各地から佐久の地を目指してきた。部員が増え、チームの輪郭が少しずつ見えてきた。

野々垣の指導方針は明快だった。教え込まない。

「指導に正解なんてないんですよ。僕が言う正解は僕の世界であって、その子の世界じゃない。100人いたら100通りの正解がある。大事なことはその子のやる気をとにかく出させること。だから、練習は目一杯やらせずに、腹八分目で終わらせる。飢えさせるんです。そうすれば、やる気がある子たちは自分たちで動き出す。今の時代、調べたりいろいろできるじゃないですか。YouTubeを見てもいろいろ出てくるしね。自分でどうしてもうまくいかなかったら聞きに来てくれるわけですよ。そのほうが選手にとってはいいのかな。技術だけでなく性格もです。一人ひとりの技術も性格も全部把握した上で、あえて言わない。一番難しいのはそこでした」

練習は2時間。走・攻・守・トレーニングを15分ずつのローテーションで回し、腹八分で終わらせる。物足りないから、選手たちは寮に帰ってから自分たちでミーティングを開き、バットを振り、頭を使う。選手たちで助け合い、強固なチームワークが生まれる。それはかつてPL学園で野々垣自身がやっていたことにも似ていた。あのグラウンドで学んだことが、30年の時を経て長野の高校で息を吹き返していた。

全国トップクラスの学校と戦うための戦略も立てた。長距離走は一切やらない。強豪校の身体の大きな選手に対抗するためにスピードを重視した。女子は遅筋が多いから、走り込むとかえって瞬発力が落ちる。代わりにショートダッシュと体幹トレーニングを徹底した。スピードは打球に追いつく守備力と機動力を武器にしてくれた。そして何よりも大きな特徴である強固なチームワークを武器にして、佐久長聖はみるみる力を付けていった。

だが、’25年。大きな壁にぶつかる。春の大会で京都の福知山成美高校に29対2の大敗。夏の大会も兵庫の蒼開高校に2対1で敗れた。野々垣はこの敗戦で目が覚める。
「小技を使わずに打って勝つ。そんな理想を子どもたちに押し付けていた。初回ノーアウト一、二塁で送りバントすれば2点入る場面でも強行させて、流れを掴めない。監督の責任で負けたんです。あの負けで完全に頭を切り替えました」
 (後編に続く)

「週刊実話」5月21日号より

配信元: 週刊実話WEB

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