
鏡に映った自分の顔を見て、「あ、頬に何かついている」と気づき、手で拭き取ることは多々あるでしょう。
これは一見、当たり前の行動に思えます。
しかし実は、「鏡の中にいる相手」が別の誰かではなく、自分自身だと理解するには、高度な認知能力が必要です。
この能力は「鏡による自己認識」と呼ばれ、長いあいだ人間に特有のものと考えられてきました。
ところが近年では、チンパンジーやイルカ、ゾウ、カササギ、一部の魚などでも確認されており、動物の知性を考える上で重要な手がかりになっています。
そして今回、ニューヨーク水族館で飼育されていたシロイルカを対象にした研究から、少なくとも一部のシロイルカが「鏡に映った自分」を理解している可能性が示されたのです。
研究の詳細は米ニューヨーク市立大学(CUNY)により、2026年5月20日付で学術誌『PLOS One』に掲載されています。
目次
- 鏡の前で「自分の動き」を確かめるシロイルカ
- 体についた印を鏡で確認したナターシャ
鏡の前で「自分の動き」を確かめるシロイルカ
研究の対象となったのは、ニューヨーク水族館で一緒に飼育されていた4頭のメスのシロイルカです。
そのうち3頭のキャシー、マリーナ、ナターシャは野生由来の個体で、もう1頭のマリスはナターシャから生まれた水族館生まれの個体でした。
シロイルカは、非常に社会性の高い海洋哺乳類です。
大きく複雑な脳を持ち、仲間と音でコミュニケーションを取り、人間やハンドウイルカなど、ほかの種の音を自発的にまねることもあります。
つまり、シロイルカはただ群れで暮らすだけでなく、「他者の行動を見て、それに合わせる」能力に優れた動物なのです。
そこで研究チームは、シロイルカにも鏡による自己認識があるのではないかと考えました。
実験では、プールの観察窓を一方向ミラーのように使い、シロイルカたちが自分の反射像にどう反応するかを調べました。
重要なのは、シロイルカたちを普段の仲間から引き離さず、いつものプールで実験した点です。
社会的な結びつきの強い動物を一頭だけ別の場所に移せば、鏡への反応ではなく、孤立によるストレスが出てしまう可能性があります。
そのためチームは、できるだけ普段に近い環境で観察を行いました。
すると、4頭のうちナターシャとマリスの2頭が、鏡の前で特徴的な行動を見せました。
マリスの実験映像がこちら。
頭を上下に動かしたり、左右に振ったり、体を回転させたり、胸びれを動かしたりしたのです。
さらに、噴気孔から泡を出し、その泡を噛むような行動も見られました。
チームは、これらの行動を、鏡の中の像が自分の動きと連動しているかを確かめる「随伴性テスト」のようなものだと解釈しています。
私たちが鏡の前で変な顔をして、「これは自分だ」と確かめるのに少し似ています。
少なくともナターシャとマリスは、鏡に映った相手を単なる別個体として扱っていたわけではなさそうでした。
体についた印を鏡で確認したナターシャ
鏡による自己認識を調べる代表的な方法に、「マークテスト」があります。
これは、本人には直接見えない体の部位に印をつけ、鏡を見たときにその印へ注意を向けるかを調べるテストです。
たとえば人間なら、額や頬についたシールを鏡で見つけて触ろうとすれば、「鏡の中の顔は自分だ」と理解している証拠になります。
今回の研究では、鏡の前で強い反応を示したナターシャとマリスの2頭に対して、このマークテストが行われました。
トレーナーは、鏡を使わなければ見えない体の部位に、無毒で一時的な印をつけました。
また、単に体を触られた刺激に反応しただけではないことを確かめるため、実際には印をつけない偽マーク条件も用意されました。
その結果、ナターシャは3回目のマークテストで、右耳の後ろにつけられた印のある部分を鏡に向ける行動を示しました。
さらに、印をつけられた後には、鏡の前に近づく回数や鏡の前で過ごす時間も増えていました。
これは、ナターシャが鏡に映った体の一部を見て、「そこに普段とは違うものがある」と気づいた可能性を示しています。
一方で、娘のマリスはマークテストには合格しませんでした。
ただし、マリスも鏡の前で多様な自己に向けた行動を示しており、研究者たちは、鏡による自己認識能力を持つ可能性を完全には否定していません。
ここで注意したいのは、この研究が「すべてのシロイルカに自己認識がある」と証明したわけではないことです。
対象は4頭であり、マークテストに明確に合格したのはナターシャ1頭だけでした。
さらに、飼育下のシロイルカは、プールの観察窓などを通じて、野生個体よりも反射像に慣れていた可能性もあります。
それでも、ナターシャが鏡を使って自分の体についた印を確認したように見える行動を示したことは、大きな意味を持ちます。
シロイルカは、ハンドウイルカとは異なる系統に属するクジラ類です。
そのシロイルカでも鏡自己認識の証拠が得られたことは、高い社会性を持つ海洋哺乳類の中で、自己を理解する能力がより広く存在している可能性を示します。
私たちは鏡を見るとき、そこに「自分」がいることを何の疑問もなく受け入れています。
しかしナターシャの行動は、その当たり前が、動物の知性の深い一面につながっていることを教えてくれます。
鏡の中のシロイルカは、ただ白い体を映していただけではありません。
そこには、自分自身を見つめるもう一つの知性が映っていたのかもしれません。
参考文献
A Beluga Whale Showed a Sign of Intelligence Once Thought Unique to Humans
https://www.sciencealert.com/a-beluga-whale-showed-a-sign-of-intelligence-once-thought-unique-to-humans
Some beluga whales appear to recognize themselves in a mirror, per a case study of captive whales which may provide the first evidence of mirror self-recognition in the species
https://www.eurekalert.org/news-releases/1128060
元論文
Evidence for mirror self-recognition in beluga whales (Delphinapterus leucas)
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0348287
ライター
千野 真吾: 生物学に興味のあるWebライター。普段は読書をするのが趣味で、休みの日には野鳥や動物の写真を撮っています。
編集者
ナゾロジー 編集部

