かつて性差・人種を超えた人間の平等を唱え、数々の受難にも耐えて、史上最大のユートピアを築いた女性がいた。彼女の名前は、アン・リー。そんな彼女の半生を描く『アン・リー/はじまりの物語』が6月5日に公開される。悲痛な体験をする中で、自らが”キリストの女性の姿の生まれ変わり”であるという啓示を受けたアン・リーが、理想郷を実現するための歩みをミュージカルドラマでスクリーンに映し出す。
本作には監督のモナ・ファストヴォールドをはじめ、アカデミー賞®受賞した『ブルータリスト』(2024)の制作陣が集結。主演のアマンダ・セイフライドは本作でゴールデングローブ賞の主演女優賞にノミネートされた。
もとになったのは、人々をひきつけ、また迫害されながら生きた、ひとりの女性の衝撃の実話である。世界に影響を与え続ける彼女の人生には何があったのか? そして本作の製作陣はその生き様をどう見せたのか?
震えがもたらす異端のミュージカル
ミュージカル映画というジャンルは、謎のキッカケが存在する。
例えば、『ウエスト・サイド物語』(1961)。血の気の多い不良ギャング同士が一触即発の縄張り争いを繰り広げている最中、なぜか全員でパチンッと指を鳴らし、息ピッタリの優雅なジャンプをキメる。『ロシュフォールの恋人たち』(1967)では、ただ道を歩いているだけの人々が突如として足並みをそろえ、自然にステップを踏み出して日常を華やかな祝祭へと変えてしまう。
『ラ・ラ・ランド』(2016)では、ハイウェイの大渋滞に巻き込まれた人々が一斉に車から飛び出し、カラフルな衣装でボンネットの上を跳ね回りながら大合唱。感情のバロメーターを振り切ったキャラクターたちが、その有り余るエネルギーの発露として歌いまくり、踊りまくるのが、このジャンルの基本構造なのである。
だが、『アン・リー/はじまりの物語』のアプローチは、次元が違う。本作で描かれるのは、張り裂けんばかりの魂の震えと、霊的なエネルギーの表出だ。心の叫びが激しい痙攣となって、肉体を激動させる。感情が昂ったから歌うのではない。神と繋がり、魂を救済するための祈りが、結果として地を這うような歌と狂乱のダンスとなるのだ。
本作の主人公、マザー・アン・リー(アマンダ・サイフリッド)は、18世紀に実在したシェイカー教の指導者。イングランドの貧しい鍛冶屋の娘として生まれ、家族全員が一つの部屋で寝起きする過酷な環境のなか、彼女は両親の性行為を日常的に目撃せざるを得ず、肉体的スキンシップに対して嫌悪感を抱くようになる。
やがて、肉体の欲求を断つ「禁欲」とすべての罪をさらけ出す「告白」を説くジェイン&ジェイムズ・ワードリー夫妻率いるクエーカー派のコミュニティに出会い、救いを見出す。彼らは祈りの最中にトランス状態に陥り、身体を激しく震わせる特異な礼拝をする。そのため周囲から”シェイキング・クエーカー(震えるクエーカー教徒) “と揶揄されていた。しかしそれが”シェイカー教”という呼び名を定着していくことに。アンは、言葉にならない罪悪感や悲しみを、激しい肉体の震えと地を這うような歌唱に変えて神に捧げる礼拝スタイルに、深く没入していった。
その後、意に染まぬ結婚をし、4人の子どもを産むものの、その全員を乳幼児期に亡くすという凄絶な悲劇に見舞われる。子どもたちの死を「肉体の欲求に負けて結婚した自分の罪」に対する神の審判だと思い詰め、深い絶望のなかで病床に伏した彼女は、再び信仰への道へと舞い戻った。
社会から「異端」として危険視された彼女は投獄されてしまう。刑務所の中で神の啓示を受け、コミュニティの絶対的なリーダーとして祭り上げられた彼女は、禁欲や絶対平和主義、人種・性別の平等を熱心に説くようになっていく。そして、わずかな信者たちを連れて新天地アメリカへと渡った。 本作は、過酷な宿命に抗い続けた彼女の波乱に満ちた生涯を、シェイカー教の礼拝様式と完全に同調させ、祈りの精神そのものをスクリーンに刻みつけた、異色のミュージカル映画なのである。
エゴなき指導者が生み出す新たなカタルシス
かつて映画監督のエゴイズムは、作家性の証明そのものだった。
『シャイニング』(1980)で、127テイクものリテイクを強要し、精神的に追い詰めることで狙い通りの表情を搾り取ったスタンリー・キューブリック。『ソーシャル・ネットワーク』(2010)の冒頭だけで99テイクを重ね、俳優の自意識を削ぎ落としていったデヴィッド・フィンチャー。そして『地獄の黙示録』(1979)で、主演のマーティン・シーンが心臓発作で倒れ、台風によって巨額のセットが壊滅したにもかかわらず、狂気的な完璧主義を貫いて現場を破滅へと追い込んだフランシス・フォード・コッポラ。
これらはすべて、己の脳内ビジョンをミリ単位で画面に定着させようとする、独裁主義の産物だ。緻密に計算された構図と編集がもたらす映像の快楽は、確かに素晴らしい。しかし、本作を手がけたモナ・ファストヴォルド監督のアプローチは、こうした俺様系の巨匠たちとは見事なまでに真逆だ。彼女が撮影の指針としたのは、他ならぬ主人公マザー・アン・リーの「エゴなき指導者」としての無私無欲っぷりだった。
歴史上のカルト指導者といえば、信者を恐怖で支配し、私利私欲の限りを尽くすのが相場だが、アン・リーは違う。暴徒に襲撃された際、彼女は服を剥ぎ取られて凄惨な暴力を受ける。だがそれでも、やられたらやり返すような復讐に走ることなく、加害者たちに向かって「あなたたちの罪を赦し、魂のために祈る」と語りかける。自らの権力を誇示するのではなく、ひたすらに無私の愛を貫き、人々が平和に暮らせるユートピアの創出を求めたのだ。
ファストヴォルド監督もまた、スタッフとキャストから「マザー・モナ」と慕われるほどの信頼関係を育み、俳優が安心して演技に没頭できる環境を構築。撮影現場には作曲家のダニエル・ブルームバーグが常駐し、リハーサルの傍らで常に劇伴を生演奏し続けた。言葉による指示に頼るのではなく、鳴り響く音楽によって、スタッフとキャスト全員の空気感を同期させていったのだ。さらに、プレイバック(事前録音)を使用する撮影の際は、俳優全員にピンマイクを装着。綺麗に録音された歌声に頼るのではなく、むき出しの感情を同調録音することで、失敗を恐れずありのままの声を解き放つ演技を引き出した。
撮影監督のウィリアム・レクサーは、こう振り返る。
「モナの演出スタイルとは、権力で威圧するのではなく、自らの圧倒的な情熱とヴィジョンによって周囲をインスパイアして率いるというものです。それはまさに、劇中のアン・リー自身が信者たちを導いた方法と完全に重なり合います」
「エゴを捨て、無私の愛でコミュニティをまとめる」というこの映画のテーマが、カメラの裏側でもしっかりと実践されている。その結果、生身の人間たちのエネルギーがぶつかり合い、ひとつの巨大な有機体となってうねりを生み出すような、凄まじい映像体験が生まれたのだ。
