
中国の浙江大学(ZJU)を中心とする研究チームによって、受精卵が初めて自分自身の遺伝子を起動する瞬間に、太古のウイルスの残骸が欠かせない役割を果たしていたことが明らかになりました。
研究では、このウイルス配列の働きを実験で止めると、胚が正常に育つ割合は47%からわずか16%にまで激減することも示されています。
しかし、なぜヒト受精卵は最も重要な瞬間を、古代ウイルスに頼っていたのでしょうか?
研究内容の詳細は『Science』にて発表されました。
目次
- 胚の「自立の瞬間」にはウイルス由来RNAが必要だった
- 古代ウイルスの遺物がヒトの始まりを支えていた
- なぜヒトの始まりを古代ウイルスの残骸に任せたのか?
胚の「自立の瞬間」にはウイルス由来RNAが必要だった

体外受精を行う臨床の現場では、受精後まもなく胚の発生が止まってしまうケースが少なくありません。
その背景には、生命の始まりにおける劇的な自活の瞬間が潜んでいます。
受精直後の胚は、いわば「お母さんが詰めてくれた弁当」で動いています。
卵子の中にあらかじめ蓄えられたRNAやタンパク質を使って、最初の数回の細胞分裂を乗り切るのです。
しかし、いつまでもこの備蓄には頼れません。
ヒトの場合、4個から8個の細胞になるころ、胚は弁当を食べ終え、自分のゲノムを読み始めて”自炊”を開始しなければなりません。
この決定的な切り替わりを、専門的には「接合子ゲノム活性化」(ZGA)と呼びます。
いわば、これまで母親から受け継いだ蓄えだけで生きてきた存在が、初めて自分の力で生きはじめる瞬間です。
赤ちゃんがへその緒から切り離されて、初めて自分で生きていくような瞬間が、受精卵にも存在するわけです。
ここで自分のゲノムをうまく起動できなければ、胚はそれ以上発生を進められず、停止してしまいます。
実際これが、体外受精における初期の発生停止の主な原因の一つと考えられています。
マウスなどのモデル動物では、この自立起動を制御する重要なタンパク質がいくつも見つかってきました。
しかし厄介なことに、ヒトの自立起動にはヒト特有の仕組みがあるとみられています。
マウスの知見をそのまま当てはめることはできず、ヒトの胚でなぜ自立起動が失敗するのかは、ほとんど解明されていませんでした。
論文著者の張丹氏も「臨床の現場では、多くの体外受精の失敗を目にします。患者の染色体や遺伝子を網羅的に調べても、それでも原因が見つからないのです」と述べています。
医師にとっても患者にとっても、こうした症例はまさに”生物学的な袋小路”のように感じられることがあるといいます。
そこで今回研究者たちが目を向けたのは、ゲノムの中でも特に”ガラクタ”扱いされてきた領域でした。
ヒトゲノムのかなりの部分は、進化の過程でウイルスが感染した名残の配列で占められています。
こうした配列は「内在性レトロウイルス」(ERV)と呼ばれ、もはやウイルスとしての活動能力は失っていますが、宿主のゲノムの中に”居候”のように残り続けています。
まさに古代ウイルスの残骸と言える存在です。
チームは体外受精後に8細胞期で発生が止まった胚を集め、どの遺伝子やどの反復配列の発現が変化しているかを網羅的に調べました。
うまく育った胚と止まった胚で、何がどう違うのかを比較したわけです。
すると、止まった胚では反復配列の中でもとりわけ「内在性レトロウイルス」の一種(MLT2A1)の発現が、うまく育った胚に比べて大きく低下していることがわかりました。
さらに内在性レトロウイルス(MLT2A1)の発現レベルと自立起動(ZGA)に関わる遺伝子の発現レベルのあいだに、強い連動関係が見られることもわかりました。
ただし、この時点で言えるのは「古代のウイルスの残骸(MLT2A1)が低い胚は自立起動がうまくいかない傾向がある」という相関にとどまります。
そこで研究者たちは、本当に古代のウイルスの残骸が、ヒト受精卵の活動開始に関わっているかを、因果のレベルで調べることにしました。
古代ウイルスの遺物がヒトの始まりを支えていた

古代のウイルスの残骸(MLT2A1)は実際に何をしているのか?
答えを得るため研究者たちは、MLT2A1からどんなRNAが生まれているかを詳しく調べました。
すると、予想外の光景が広がっていました。
8細胞期の胚においてMLT2A1からは、からは196種類、モデル細胞からは112種類という、膨大なバリエーションのRNAが見つかったのです。
ではウイルス由来のRNAは、何をしていたのでしょうか?
「ウイルスとして復活の準備を進めていたのか?」と思う人もいるかもしれませんが、幸い違いました。
MLT2A1はヒトゲノムの中に3838個というかなりの数がコピーされて存在しますが、その約9割はウイルス自身の設計図を完全に失い、”起動スイッチ”に当たる部分(LTR)だけが単独で残った状態にあります。
(※残りの1割も、完全ではないもののほとんど失った状態にありとてもウイルスの体を作る情報になり得ません)
そのため太古の封印を破ってウイルス粒子を作り、人類を感染させる……といった物騒な話にはならないわけです。
実際に起きていたのは、MLT2A1をもとに作られたRNAが別のゲノム領域で作られた別のRNAとと”融合”するという現象でした。
こうして、異なる配列がつながった合体RNA(キメラRNA)が作り出されていたのです。
出自の異なる”居候”たちが手を組んで、まったく新しい種類のRNAを作り出していた——そんな構図が浮かび上がりました。
ではその合体RNAは何をしていたのか?
研究者たちが調べたところ、驚きの事実が判明しました。
この合体RNAはヒトDNAの特定の部分に結合して、遺伝子のスイッチをオンにする起動スイッチとして働いていたのです。
ではこのスイッチ機能を停止したら何が起こるのでしょうか?
研究者たちは、体外受精で生じた前核が3つある受精卵(3PN胚。通常は移植に使われない胚)でMLT2A1を抑えた時の影響を調べてみました。
すると、受精3日後に8細胞期に到達できた胚の割合は、抑えなかったものが47%に対し、MLT2A1を抑えた胚ではわずか16%にまで落ち込んだのです。
さらに4日後になっても発生の遅れは持続し、MLT2A1を失った胚の大半が先に進めなくなっていました。
さらにダメ押し的に、MLT2A1を抑えた胚に人工のMLT2A1キメラRNAを導入したところ、低下していた自立起動遺伝子の発現が部分的に回復したことも示されました。
これらの結果は、古代のウイルスの残骸(MLT2A1)がヒトの命の始まりにとって非常に重要な役割を担っていることを示しています。
研究者たちは、この成果は将来的には生殖補助医療を変える可能性を秘めていると述べています。
たとえば研究者の1人は「MLT2A1の発現量を測定することで、体外受精で得られた胚のうち移植後に順調に育つ可能性が高いものを見分ける手がかりになり得る」と述べています。
現在の胚の品質評価では意外に原始的で、見た目の正常さが重要な手がかりの一つとされています。
しかしMLT2A1を指標(バイオマーカー)に加えることで、自立起動がきちんと進んでいるかどうかを分子レベルで確認できるようになるかもしれません。
研究チームはまた、MLT2A1のはたらく仕組みをより深く理解することが、自立起動(ZGA)の失敗に関わる胚発生停止に対して、新しいアプローチの糸口を開く可能性があるとも指摘しています。

