「法医解剖医なら、完全犯罪も可能なのではないか――」。そんな物騒な質問を受けることがある。確かに法医学者は死体の専門家だ。しかし、数多くの殺人事件や死体遺棄事件に関わってきた経験から言えば、死体という物的証拠をこの世から完全に消し去ることは、一般に考えられている以上に難しい。死体を薬品で溶かす、土に埋める、ドラム缶に詰める、あるいはコンクリートで固める――。犯人たちが「これなら見つからない」と考えた数々の隠蔽工作は、なぜ発覚したのか。
『法医学教授が教えている 死体の授業』から一部を抜粋、編集してお届けする。
法医学者に完全犯罪は可能か?
「死体の専門家である法医解剖医ならば、殺人を犯しても完璧な形で死体という証拠を隠滅できるのでは?」
物騒な質問ですが、そう問われたと仮定して思考実験をしてみましょう。
まず、大前提として私たちは「死体の専門家」ですから、「殺人」に関しては門外漢です。どんな方法であれば、確実に死にいたらしめるか、犯罪の証拠を抹消できるかは、法医解剖医の管轄ではないためお答えできませんが、ここでは「死体を完璧に消滅できるか」に絞って考えてみましょう。
完璧に死体をこの世から消し去ることは可能なのか?この問いを考えるためには、そもそも完璧とはなにかを定義する必要がありますが、「証拠が出てきたとしても、そこからDNAすら検出できないため、個人特定ができない」という状態を完璧な証拠隠滅としていったん想定しましょう。
死体を骨だけにする方法であれば複数あります。
硫酸や塩酸などの強酸、もしくは青酸ソーダなどの強アルカリを大量に使えば、死体の肉や内臓を溶かして骨だけを残すことは理論上、十分に可能です。
ただし、完全に骨だけの状態に溶かすまでには長い時間がかかる上に、どちらも素人が扱うには非常に危険な薬品です。
そして、熟練のベテランではなく素人の作業ですから、すべての組織が溶解するとも限りません。そのうえ、軟部組織だけを溶かしても骨からはDNAが検出可能ですので、手間がかかるだけで目的を達成することはできません。
過去の学会報告では、白骨の研究者(法人類学者という)による「腐敗死体に付着した細かい肉片を処理し骨格標本にするためには、ビニール袋に強力な業務用洗剤の原液を入れて死体を漬け込むとよい。数日で肉がボロボロ取れて骨だけが残る」という発表を聞いたことがあります。
石鹸や洗剤、化粧品などに含まれている界面活性剤ですが、プロの業者が使う高濃度の洗剤であれば、細胞を破壊する力は十分にあります。
また、東南アジアでは同様の目的に安価なパイナップルジュースを使うそうです。パイナップルにはパパインというたんぱく質分解酵素が含まれているためです。
死体を大鍋でじっくりコトコト煮込んだ結果は……
実際、過去には知人を殺害した20代男性が、死体を業務用の寸胴鍋に押し込み、そこにパイプ洗浄剤(強アルカリ性薬剤)を大量に投入。鍋を火にかけ、一昼夜かけて死体を煮溶かそうとした事件がありました。
けれども、どれだけコトコト煮込んでも、成人男性の肉体を完全に溶かしきれなかったため、諦めた犯人は大きな骨だけ取り除き、鍋の中身を浴室の排水管に遺棄しました。
骨は砕いて河原に埋めたそうですが、警察が浴室に流した「死体のスープ」が貯蔵される汚水槽を探し、そこから被害者のインプラント(人工歯根)のネジを発見したことで、殺人・死体損壊・死体遺棄容疑で逮捕されました。
このように、殺人の証拠=死体を跡形もなく消すことは非常に困難な作業です。

