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2006年の第一次安倍政権時、沖縄戦における「集団自決」に関する記述から削除された「軍の強制」という文言…道徳の教科化など戦前と変わらない教育現場に…歴史改ざん主義者たちの思惑

2006年の第一次安倍政権時、沖縄戦における「集団自決」に関する記述から削除された「軍の強制」という文言…道徳の教科化など戦前と変わらない教育現場に…歴史改ざん主義者たちの思惑

2006年、第一次安倍政権時、教科書検定で官邸から圧力がかかった

前川 教科書検定では、かなり政治が反映したことが行われてきました。今でも問題だと言われているのは2006年の高校日本史の「集団自決」をめぐる検定です。私が最近読んだ『日本史教科書検定三十五年 教科書調査官が回顧する』(吉川弘文館、2025年)という本の著者の照沼康孝さんは、教科書調査官として、この2006年の日本史教科書の検定をやった人です。日本史の中でも近現代の軍事史がもともと専門の人で。彼の先生は伊藤隆という東大教授で、「新しい歴史教科書をつくる会」に参加した人です。その門下生と言われている人の1人が照沼さんですが、この人は学者だから論文もたくさん書いているし、歴史学の作法はちゃんと身につけているので、「学問的根拠のないことを教科書に書くことは認めない」という基本的なラインはあるわけです。

2006年は第一次安倍政権ができた年です。照沼さんは、この本の中で、2006年の高校日本史の教科書検定に当たって、官邸から圧力があったと書いています。当時、文部科学省に直接圧力をかけたと思われるのは下村博文・官房副長官(当時)です。もともと自民党文教族ですが、この人が歴史教科書の内容にいろいろ注文をつけ、それを当時の文部官僚たちが受け止めて検定に反映させようとした、というのです。

相当詳細に「教科書のこの記述は問題だ」という指摘があって、その一覧がコピー用紙で30枚近くもあり、事務方から教科書調査官に回ってきたそうです。

事務方の教科書課長の下に教科書企画官がいますが、これは学者じゃなく役人です。一方、教科書調査官は、身分は国家公務員ですが、学者がなる。ただ、学者だけど、偏りがあるのは間違いない。この照沼さんと、もう1人、村瀬さんという人も2006年の検定に当たりましたが、2人とも伊藤隆教授の門下ですから、伊藤隆人脈が相当に文科省の教科書検定に反映されている。

そもそも教科書調査官とか、あるいは教科書審議会の委員の選び方自体、縁故で選んでいるところがあって。その中心に「つくる会」の中心にいた伊藤隆教授の人脈があって、検定の体制が作られていた。そこに加えて2006年の第一次安倍内閣が明らかに圧力をかけてきた。

私は、このとき文科省にはいたんですが、この辺の事情は知りませんでした。直接のラインにいたわけじゃないので。でも照沼さんの本を読むと、官邸からいろいろ言われたけど、それに全部対応していると、必ず外交問題になる、中国や韓国から非難されるのは火を見るよりも明らかだった。その中で唯一、外交問題になる可能性がなかったのが沖縄戦での集団自決の問題だった。だから他の点については対応しなかったけれど、集団自決のところだけは官邸の言い分を聞いた、ということだったようです。

集団自決については、沖縄からは大変な抗議の声が上がりました。それ以前の検定では通っていた「日本軍が強制した」とか「日本軍が強いた」という記述を、この2006年の検定で突然ダメだと言い始めて、全部書かせなかったわけですから。「何で前はよかったのに、今はダメなんだ?」と抗議の声が高まった。

何か大きな歴史学上の知見が変わったということがあれば、こういうことはありえます。だけど、そんなことではないのに、以前は検定を通していた表現を通さなくなったのは、政治の介入が理由だったわけで。

私はこの件の経緯を知りませんでしたが、第一次安倍政権のときに起きたので、「官邸の圧力があったことは間違いないだろうな」とは思っていました。その辺の事情を照沼さんは具体的に書いています。官邸と教科書検定の現場との間に入った文科省の役人がいた。それは、組織としての文科省が官邸の、政治家の言いなりになった、ということです。

教科書検定については古くは家永裁判(*1)というのがあって、検定制度そのものの違憲性が争われました。「検定は憲法で禁じている検閲に当たるんじゃないのか」「言論の自由、表現の自由に対する侵害ではないか」という議論がありました。ただ私は、検定はあってもいいとは思っています。かつての検定は、左の教科書を見張るためのものという意味合いが強かったのですが、今はとんでもない右の教科書が出てきているので、右の教科書を排除する意味でも、ファクト・チェックという意味での検定はあったほうがいいと思っているんです。

ただ、その検定に政治が入り込む余地があってはいけない。だから文部科学大臣から独立させた、学者たちから成る機関を作って、そういう学者たちの代表者が検定する、ということにしたらいいと思います。たとえば日本学術会議のようなところに検定機関を置くとかですね。学術会議もこの前の法人化法で骨抜きにされてしまいましたが、これまでの学術会議みたいな組織がベースになって、あくまでも学問に基づいて検定する仕組みにしたらいいと思うのです。もちろん学者の中にもいろんな意見があるでしょうから、最大公約数的なところで検定するというようなことをしてくれたらいいと思います。

*1 家永三郎氏が執筆した高校の日本史の教科書が1962年の文部省の教科書検定で大幅な訂正を求められ、家永氏は検定が憲法違反であるとして、国を相手に裁判を起こした。

道徳が「教科」にされたことは「戦争ができる国民作り」につながる

前川 「新しい歴史教科書をつくる会」ができたのも、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」ができたのも97年ですから、大体この30年の教育の流れが大きく右傾化していく出発点がこの年だと思います。教育の右傾化はどんどんひどくなっている。2006年には教育基本法が改正され2018年には道徳が教科化されました。

この道徳の教科化というのは、「国が作った国民道徳を学校教育で教える」ということです。道徳教育を国が進めるのは、本当に危ない。「道徳の時間」というのは、私が小学生の頃からありました。これは1958年に岸信介内閣のときに設けられた。でもその頃の日教組(日本教職員組合)の組織率は86パーセントでしたから、現場サイドで握り潰したケースが多く、国が期待したような効果は上げなかった。

それに対して、「こういう曖昧な位置づけだからよくない、国語や算数のようにちゃんと教科にすべきだ」という政治の動きが強まった。教科にするということは、国が検定する教科書を使わせるということと、「学習成果を評価する」ということを意味します。

岸信介内閣のときに導入した「道徳の時間」には教科書はなかったし、学習成果を評価することもなかった。それに対して「だからダメなんだ。ちゃんと国家の道徳を国民に教えるためには、戦前の修身のように教科にしなければいけない」と言う人たちが90年代後半から一気に力をつけてきた。

特に2000年に森喜朗さんが総理大臣になったのが大きなきっかけでした。小渕恵三総理が突然倒れたので、棚ボタ式に森さんが総理になって、森内閣のもとで教育改革国民会議が、初めて公文書で「教育基本法の改正」と「道徳の教科化」を打ち出したんです。これが決定的に日本の教育の右傾化の流れを作りました。

そして2006年の教育基本法の改正。この改正で盛り込まれた言葉が「道徳心」「国を愛する態度」などという言葉です。その言葉を入れさせた人たちが考えている道徳心というのは「国家が作る国民の道徳」ですから、教育勅語のようなものを考えている。

でも私は本来、道徳というのは、憲法で保障された思想、良心の自由の中にあるのであって、1人1人道徳は違うはずだと思います。1人1人違う道徳だけれども、その最大公約数的なものが法律になっていて、「人を殺したら罰せられる」とか「物を盗んだら罰せられる」とか、刑法の中に最大公約数的なものはあるけれど、それ以上のもの、罰せられない悪事というのがどこまであるか、あるいは、法では実現できない正義とか善とかとは何なんだろうかというのは、1人1人の精神の自由の中にしかないと思うのです。

しかし「日本人には日本人の道徳がある」という考え方をいまだに持っている人たちがいる。というか、むしろこの30年間に拡大再生産されている。それで第二次安倍政権で、ついに道徳の教科化まで実現してしまった。第一次安倍政権でもやろうとしたけれど、第一次安倍政権は1年しかなかったので、教育基本法の改正まではやったけれども、道徳の教科化まではできなかった。それが2018年についに小学校で道徳の教科化が始まり、翌年は中学校で始まった。これは本当に危ないと思います。

道徳の教科書は、検定のしようがないと思うのです。他の教科であれば、それぞれバックグラウンドとしての学問があり、歴史の教科書であれば歴史学があるので、学問の成果に基づいて検定すればいいわけですが、道徳の検定の基準になるものって、ないはずなんです。

でも学習指導要領はあるんです。1958年に岸信介内閣のときに作った学習指導要領が、その後多少の変遷を経て残っています。たとえば「日本人としての自覚をもつ」と学習指導要領に書いてあります。「父母、祖父母を敬愛する」という徳目も書いてある。でも世の中には敬愛できない父母も祖父母もいるはずです。

暴力をふるったり、育児放棄したり、毒親と言われる人たちもいるわけで……。それなのに「父母、祖父母だから必ず敬愛しろ」なんていうことが学習指導要領の道徳編には書いてある。

そして今、教科になった道徳の教科書には、全部「正解」が書かれている。「全体のために自らを犠牲にする」「全体に奉仕する」「貢献する」ということが美徳とされて、「自分を活かす」なんていうことを美徳に書いてある教材はほとんどない。むしろ「我慢しろ」とか「わがまま言うな」とか「自らの成功を求めるな」とか「自己抑制や自己犠牲こそが美徳だ」と。これは従順な兵士を育てるにはもってこいでしょう。

だから道徳の教科化は「戦争ができる国民作り」につながる。昔の日本軍の兵隊のように「命令されたら何でもしてしまう」権力や権威に非常に従順な兵士を作る。だからこの道徳の教科化は本当に危ないのです。

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