10月に入ると、新しい命令が下る。こんどは革命の聖地・白頭山の踏査だという。金日成率いる抗日パルチザンゆかりの戦跡地を赤旗を掲げ、行軍スタイルでめぐり歩くのだ。標高2744メートル、朝鮮半島の最高峰を極める登山はただでさえつらい。しかも山頂の年平均気温はマイナス8.3度、冬はマイナス40度にまで下がることすら珍しくない。吹雪のなか、肉体を極限まで追い込み、先人の革命精神を学ばせ、最高指導者への忠誠心を高めさせようとする思想教育なのだ。明らかに体制の引き締めがその目的であった。
ヨンヒはクラスメートと踏査へ出発する。平壌から列車で咸鏡北道吉州へ向かい、さらにその先、日本海側にある塩盆津海岸の休養所でひと息つく。忘れもしない11月17日だった。ここは白頭山を目指す、いわば前線基地。
「娯楽会というんですが、近くのガラス工場からコンロを借り、ご飯をつくったり、砂浜でゲームをしたり、カラオケもしました。夜11時に寝てまもなく、私の携帯電話が鳴ったんです。なんだろう? ママから、パパがけさ、亡くなった、と。糖尿病の合併症、まだ50歳でした」
父、文義胤は1960年に東京で生まれてすぐ家族と帰国した。朝鮮総連の結成にかかわった父がいたとはいえ、在日出身ながらエリート軍人の道を切り開いたのは希有なケースだ。ヨンヒは記憶している。
「もともとパパは元山駅そばの鉱物商社の副支配人だったんです。そのあと、金正日の紅衛兵ともいわれる3大革命小組の責任者として中国との国境、咸鏡北道延社郡に派遣されます。そこで金日成のパルチザン時代の戦友、人民軍元帥の李乙雪に気に入られ、3年たって戻ってきたときは労働党員でした。パパが支配人だった高級軍人専用保養所には李乙雪もよく遊びにきていて、私も会い、乙雪ハラボジ(おじいさん)と呼んでいました」
1枚の写真がある。父が急死する2週間前、風光明媚な侍中湖にあるくだんの保養所に家族4人がそろい、海岸で撮ったものだ。人民服で胸を張る父と腕を組むのは母の崔順玉、その横でヨンヒがほほえむ。軍隊に行っていた弟の文連峰もテレくさそうに父と腕を組んでいる。
「私が脱北したとき、リュックに入れていた写真ですが、鴨緑江の濁流で濡れてしまって。幸い人づてに同じ写真を親戚が持っていたので複写しました。大切な大切な私の宝物です」
その父の悲報。
「でも、白頭山の踏査を放棄するなど許されない。母が大学の組織秘書に必死に働きかけ、なんとか特別に帰宅が認められたんです」
それこそ、夜通し、歩きに歩いた。吉州から列車に乗ったが、動かない。ヒッチハイクよろしく、道端で車を拾う。トラックの荷台にも乗った。平壌の自宅にたどりついたのは4日後だった。朝鮮半島の風習では亡くなって3日目に埋葬する。ヨンヒは父の顔を見られなかった。
「いろんなパパがよみがえってきた。いつかピアノ留学させてやりたい、と私を元山芸術学院の初級班(小学校)に入れようとしたとき、韓国の大宇自動車のエンジンを日本から万景峰号で運び、学校に寄贈したんです。自動車のエンジンが壊れたとの情報を聞き込んできていたんでしょうね。いまさらながら親心がありがたくて」
鈴木琢磨(すずき・たくま)ジャーナリスト。毎日新聞客員編集委員。テレビ・コメンテーター。1959年、滋賀県生まれ。大阪外国語大学朝鮮語学科卒。礒𥔎敦仁編著「北朝鮮を解剖する」(慶應義塾大学出版会)で金正恩小説を論じている。金正日の料理人だった藤本健二著「引き裂かれた約束」(講談社)の聞き手もつとめた。
写真/初沢亜利

