先端を削って尖らせた柱を肛門から突き刺し、体を貫くと、その柱を立てたまま死に至らしめる。それが中世ヨーロッパ時代に実際にあった「串刺しの刑」である。
しかし、あえて先端を尖らせず、丸くするよう指示した独裁者がいる。なぜなら彼は、串刺しされた人間が悶絶しながら息絶えていく姿を、少しでも長く見ていたかったから。それが「串刺し公」と呼ばれたルーマニアの暴君ヴラド・ツェペシュ(ヴラド3世)である。
1431年、ルーマニアの小国ワラキア公国君主の家系に生まれたヴラド3世は13歳の時、弟とともにトルコの人質となるも、その強靭なメンタルでトルコ軍に参加。対ハンガリー戦での大きな功績が認められて、ワラキアに帰還した。
すると父に代わって君主となった男を殺害し、新たな君主の座に就くことになった。とはいえ、人質の身で戦地においてハンガリー兵士を殺しまくり、その功績で帰還した男である。したたかさと残虐性は半端なかった。
君主になるや否や、国内の有力貴族や主教などを集め、
「これまでに何人の君主に奉仕してきたか」
と質問。一定数以上の君主に仕えてきた500人余りを「裏切る可能性大」として串刺しにしたのである。
むろん、他者への見せしめもあったのだろう。ただ、この暴挙で有力貴族は一掃され、残った者たちも絶対服従を強いられることとなった。
だがこれはまだ、恐怖の助走にすぎなかった。貴族だけでなく、全国民に対して厳格なモラルを求めたヴラド3世は、不貞した人妻がいると知れば子宮を裂き、生皮を剥がして戸外に晒し、夫に口答えした妻の乳房をえぐり出し、夫に食べさせたという記録が残されている。
さらに「貧困をなくす」との理由で、貧困に喘ぐ人々そのものを大量虐殺したという話も。自国の貴族や国民に対してでさえ、この暴挙である。外敵となれば当然、その残虐さは説明するまでもないだろう。
彼が侵攻したシューベンビュルゲンやファガラシュ、トランシルヴァニアなどでは、村人を串刺しにするだけでは飽き足らず、家を焼き払い、その様子を食事をしながら見物していたというのだから、常軌を逸している。
ただ、この男、相手兵士を殺しまくったことで、トルコ侵略からルーマニアを守り抜いた名君と言われるのだから、歴史というのは本当に見る角度によって正反対に変わるものだ。
ヴラド3世は1476年、トルコとの戦闘中に暗殺され、切り落とされたその首は串刺しにされたまま、街中に晒されたとされる。享年45。のちに作家ブラム・ストーカーにより、この男をモデルにした小説「ドラキュラ」が出版され、全世界で大きな反響を呼ぶのは1897年。ヴラド3世没後420年以上を経てのことだった。
(山川敦司)

