人工細胞は、生存競争まで始めた

食べて、育って、分裂する。それだけでも十分に生き物じみています。
けれど研究チームは、さらにもう一歩、生命の核心に踏み込みました。生き物どうしの「競争」を、この小さな塊にやらせてみたのです。
まず、少しだけ体質の違う二種類のスパッドセルを用意しました。
先に述べたようにスパッドセルは、餌の袋にくっつくための”取っ手”を、自分の表面に突き出していました。
研究チームは、この取っ手をふつうより多く作れる個体を用意します。
取っ手が多ければ、それだけ餌をつかまえやすい。
つまり「よく食べる体質」です。
そこで研究者たちは「ふつうの個体」と「よく食べる体質」の個体を、ちょうど半分ずつ混ぜ合わせました。
すると世代を重ねるうちに、答えははっきりしてきました。
本物の生命のように、よく食べる体質のほうが、じわじわと数を増やしていったのです。
両者の違いは「食べるのが得意かどうか」だけ。
その一点の差が、残せる子の数の差に、まっすぐ結びついたわけです。
有利な性質を持つものが、より多くの子孫を残していく。
これは、生き物の世界で「選択」と呼ばれる現象——進化の入り口にあたる仕組みそのものです。
それが、脂の膜でできた人工の塊のあいだにも、ひとりでに立ち上がりました。
しかも、この「よく食べる側が勝つ」という結果は、条件を変えた複数の実験で、そろって確かめられました。
ここまでは、餌がたっぷりある状況での話です。
研究チームは次に、意地悪な問いを立てました。
餌を減らしていったら、勝敗はもっとくっきりするのか、それとも曖昧になるのか——。
結果は、少し残酷なものでした。
餌が有り余っていれば、食べるのが遅い個体にも、食べ残しが回ってきます。
ところが餌が乏しくなると、話は一変します。
速い個体が先に食べ尽くしてしまい、遅い個体のぶんは、もう残っていません。
餌をいちばん厳しく絞った条件では、その差は決定的で、早く食べれるほうが、さらに有利になるという結果が得られました。
もともとは、ほんのわずかな「食べる速さ」の違いにすぎません。
それが、食糧難という圧力のもとで、生き残る数の大きな差へと増幅されていきました。
研究チームは、この光景を、ある身もふたもないことわざになぞらえています。
曰く、「危機のときほど、富める者がより富む」。
食べ物が乏しくなるほど、持てる者と持たざる者の差は開いていく——私たちの社会でよく語られる、あの非情な法則。
それが、意思も欲望も持たない、たった数十個の分子を詰めた袋の集団のなかに、化学と物理の力だけで、ひとりでに現れたのです。
それでも、作った本人は「これは生命ではない」と言う

食べて、育って、分裂して、競争して、有利な性質が広がっていく。ここまで来れば、もう生き物だと言ってしまいたくなります。
しかし、この研究を率いたケイト・アダマラ氏自身は、慎重な立場を崩していません。
さきほどの競争では、有利なほうが優勢になるという、自然淘汰の一場面のような結果がみられました。
けれど、あの「よく食べる体質」は、研究者が外から入れたものでした。
自然に湧いて出たわけではありません。
そのため、自然な遺伝子変異によるダーウィン的な意味での「進化」とは、趣が異なります。
これは「選択」の実演ではあっても、生物史における「進化」の実演とは言えないのです。
他にも違いがあります。
天然の細胞では、分裂のたびに、ほぼすべての娘細胞が遺伝子のフルセットを受け取ります。
しかしスパッドセルには、遺伝子を均等に分ける装置がありません。
どの娘にどのDNAが入るかは、ほとんど運任せとなっています。
そのため細胞分割を機械的に行っても、5世代後に完全な遺伝情報を保っていた細胞は、全体のわずか約3割でした。
分裂のペースも、今回の実験では1サイクルにつきおよそ12時間。
条件がよければ30分で分裂する大腸菌に比べると、ずっとゆっくりです。
そしてもうひとつ、より根本的な限界があります。
通常の生命細胞の中には、DNAの設計情報にしたがって、体の材料(タンパク質)を組み立てる工場があります。
リボソームと呼ばれるこの工場を、スパッドセルはまだ自力で作ることができません。
そして、これはただの入れ忘れではありません。
リボソームは、RNA(rRNA)と多数のタンパク質が組み上がった、途方もなく精巧な分子機械です。
かりに作り方を書き込んだとしても、いまのスパッドセルには、リボソームの複雑な部品を正しく組み上げる仕組みが足りません。
(※じつは、リボソームを一から組み上げること自体、つい最近になって別の研究がようやく試験管の中で成功させたばかりの難関です。)
だから今回の研究では、「エサ袋」の中にリボソームを詰め込み、スパッドセルが取り込むときに補給する手段がとられたのです。
DNAの情報を体の材料に変換する工場を自前で作れないというのは、生命として自立しているとは言い難い状態です。
実際、細胞として自律的に増える生き物にとって、リボソームは欠かせない中核装置です。
だから研究者たちはスパッドセルはまだ生命ではない——少なくとも、そう呼ぶにはまだ大きな壁があると考えています。
けれど——外の助けなしに増えていける生き物など、そもそも存在するのでしょうか。
寄生生物や共生生物の中には、エネルギー生産や増殖のかなりの部分を宿主に依存しているものも知られています。
完全に自立した生命など、じつはどこにも見当たらないのです。
そんな中で、「リボソーム本体の設計情報を持っているかどうか」という一点が、生命と非生命を分ける完璧な境界線になるのでしょうか?
研究者たちは、自分たちの作ったものを、ライト兄弟の最初の飛行機にたとえ「現代の細胞が最新鋭のジェット旅客機だとしたら、私たちが作ったのは、翼をつけた自転車のフレームで、30メートル飛んだようなもの」と述べています。
「ゼロから生命に近い細胞を作る」というのは、まだよちよち歩きの技術であるのは確かです。
それでも、この不格好な水滴は、食べて、育って、分かれて、競い合うという、私たちが「生命だけの特権」だと思っていた営みの多くを、模倣してみせました。
そう考えると、スパッドセルと本物の生き物のあいだにあるものは、くっきりした「一線」ではなく、もっとあいまいな「濃淡」に見えてきます。
外への依存が濃いか、薄いか。自分でまかなえる部分が、多いか、少ないか。
その度合いが少しずつ違うだけで、どこかに明確な境界線が引かれているわけではないのかもしれません。
シャーレの中の小さな塊は、まだ生命とは呼べないでしょうが、それを見つめる私たちの側で、「生きているとは、どういうことなのか」という問いを突き付けるものになるでしょう。
もし将来的に、完全に人工的に作られた材料を混ぜて作られた人工細胞が、普通の細胞となんらそん色ないものとなったら――さらにその技術が受精卵や胚にも及んだとしたら、私たちは生命の境界として「自然かどうか」を使い続けることはできるのでしょうか?
境界の向こうに、いつか「生命」が生まれるのか。
それとも——その境界線こそ、私たちが自分で引いた幻だったと気づく日が、来るのか。
私たちはいつか直面しなければならないでしょう。
参考文献
World’s first synthetic cell with a complete life cycle could revolutionize biological engineering
https://twin-cities.umn.edu/news-events/worlds-first-synthetic-cell-complete-life-cycle-could-revolutionize-biological
元論文
A Chemically Defined Synthetic Cell Capable Of Growth And Replication
https://doi.org/10.64898/2026.07.01.735724
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部

