「正しいこと」を論理的に説明しても、人は必ずしも納得しない。では、対立する人々が手を取り合うための「橋」を架けるには何が必要なのか?ガザ問題や同性婚訴訟、不妊手術をめぐる裁判など、分断が深まる現代社会の事例を通じて、法学者・大澤真幸と弁護士・谷口太規が「普遍性」の可能性を問い直す。
*本記事は2026年5月29日、隣町珈琲(東京・中延)で行われたトークを編集し採録したものです。
「論理で説得するだけでは納得しない」場合、何であれば架橋できるのか?
谷口 ナショナリスティックな執着の問題は、「交響圏とルール圏」の問題とも関係があると思います。公共訴訟って、多くの場合、今のルールから排除されている人たちの抵抗運動から始まるんですよね。外国人技能実習生とか外国ルーツの労働者とかは、日本人の労働者と同じ「労働基準法に適用される人」として扱われないことが多い。そういう人たちが、「いや、自分たちも人間なんだから、そちらに含めてください」という、そういうものが出てくる。
同性婚の問題もそうで、「自分たちの枠を広げる」ということなんですけど、その「パーソナルなストーリーが公共に変わっていく瞬間」が、途中であって。
LGBTQのコミュニティとか、外国ルーツの人たちのコミュニティとか、その時までは閉じられたように見えるコミュニティがあるわけです。彼らは今、日本のマジョリティーを支配しているコミュニティには属していなくて、「自分たちもそこに入れろ」という争いがあった時、大澤先生がおっしゃった「日本の物語に執着している人たち」と、こちらという、分かれた構造というのは、今アメリカで起きていることも、まさにそうなんです。
アメリカでは、公共訴訟が必ずしも現在の日本での使われ方だけではなく、たとえばもう同性婚は認められているけれども、「同性婚をした男性について書かれた本を学校で読ませるのは、自分たちの宗教の侵害だ」というような裁判も起きているんです。つまり、公共訴訟はどっちの手段にも使われ得るんですね。
ある種の分断ができているときに、「ここのコミュニティのアイデンティティを守るために、こっちを排除する」という、そういうようなことが、公共訴訟にもあり得るわけで。
その時に、もっと広くその人たちを包括する何かというものを構想する、それをつなぐ何かというものを考えないといけないんです。
だから、夫婦別姓とかについて先生がおっしゃられたように、「論理によって説得するだけでは必ずしも納得しない」という場合、「何であればそういう人々との間に架橋できるのか」ということについて、先生がもしお考えのことがあれば、お教えいただけますか。
大澤 それは究極の問題なんですよね。
「交響圏とルール圏」というものがありますが、普通、「公共圏」というのは「パブリック・スペース」とかそういう意味です。でも私の師の見田宗介先生は、「コウキョウ」というのを「交響」、つまり「交響曲」のようにシンフォニックに、「みんなが交響する」、気持ちがすごく合っていて、一つの一体感を感じるみたいな、そういうグループとして捉えた。
いろんな人たちが、それぞれのやり方で連帯したり、共感し合ったりする。それぞれの違いは許されるべきであるけれども、それらがたくさんあるという時に、「世界を二重構造で考えるべきだ」というのが見田先生の考えで。
つまり、交響している人たちが、それぞれの仕方で、それぞれの物語を持ったり、それぞれの感じ方、マナーがあったりする。でも、その人たちがさらに究極的にはグローバルな規模で共存するわけだから、その全体として、緩やかな意味での法律の役割が出てくる。違いのある人たちが相互に尊重できるような形のルールというものにしていく、という。
共存が「絶対不可能」と思えるガザ問題にどう向き合うか
大澤 これは「それ以外にないじゃん」と思えることなんですが、いろいろ考えると、僕らが現代に直面している問題というのは、これしかないそのフォーマットですらも難しい状況になっていると思う。
たとえばこの方法でガザ――パレスチナとイスラエルの問題を解決できるか。あそこでは、もう双方が相手の殲滅(せんめつ)を本当は望んでいるんですよね。だから、「平和的な共存自体が絶対不可能」というか、お互いが共存できるような枠組みみたいなものが、もう、ない。それくらい深刻な問題を抱えているので、どうすればいいのかと思うんです。
まず、法というのは、原理的に言えば、基本的にはみんなが同じ法に従っていくので、本当に普遍的なんです。ただ、そうは言っても「グローバルに一つの法がある」というふうにはいけなくて、それぞれの国ごとに法があるんですが、それには、いろんな意味での便宜上の理由がある。実際に地球規模でしか法がなかった場合、「その法を誰がどういう仕方で執行、保障するのか」ということを考えると、やっぱり現在の国民国家のレベルぐらいが限界だ、みたいなものになる。実は、そのレベルでさえ難しいわけですけど。
だから、プラクティカルに考えると、世界にたくさんの国があって、それぞれの国がそれぞれの法を持って動く。それにまた地球規模で合意するというのは、非常に難しいから、様々な国の中に様々な法があるのは仕方がない。ただ、法自体が持っている潜在的なポテンシャルとしては、「あなただけの法」というものはなくて、基本は、普遍性というものに対してすごく強いオリエンテーションを持っているのが法の特徴だと思うんです。
それで僕が今、一番思っているのは、「人間にとっての普遍性とはどういうことか」ということなんです。難しいのは、固有の物語にはコミットしやすいんですけど、普遍性というものにはコミットしにくいんですよ。つまり物語性も全然なくなってきて、「みんながそれぞれ生きればいいじゃん」という話には、何の魅力もないんですよね。だけど、それぞれの物語だったら、少しある。
そうすると、やがて物語同士がケンカし合うんです。その一番深刻なケースとして、ユダヤ人の物語を持っている人たちと、パレスチナの人たちが持っている物語。これが相互に矛盾するみたいなことになってしまっている。
ではどうすればいいか、ということですけど、これは本当に究極の問いなので、ここで数分話したらできるようなことではないんだけど、僕は「普遍性ってどういうことか」ということについて、もうちょっと考え直すんです。

