“令和の熟女グラビア”として注目を集めた、ラジオ沖縄アナウンサー・竹中知華さん(44)。『週刊プレイボーイ』でグラビアに初挑戦した際に発売されたデジタル写真集『TOMOKA』は、発売からわずか1週間で1万ダウンロードを突破した。
7月13日には、故郷・広島で撮影した最新写真集『Born to be TOMOKA』『TOMOKA THE LAST』が発売される。広島は、竹中さんにとって亡き父との記憶が残る場所でもある。明るいキャラクターで知られる彼女が、撮影を通して思い出した父との時間を語った。
広島ロケでよみがえった「亡き父との時間」
竹中さんの最新写真集『Born to be TOMOKA』『TOMOKA THE LAST』の撮影は、広島の尾道市にある「住之江旅館」で行われた。「住之江旅館」は、大林宣彦監督の映画のロケ地としても知られる有名な旅館だ。担当編集者は言う。
「竹中さんの地元は呉で、当初は竹中さんやご家族の許可さえいただければ地元でご実家などで撮らせていただく案もありました。しかしお父様も亡くなったばかりで、お母さまに心労をかけたくないということで、だったら完全に離れて広島の情景を余すことなく撮影できる場が良いだろうと、大林監督の新・尾道三部作で知られるこの地に決めました」
竹中さんは現在、沖縄在住だが、仕事も忙しくこれまでなかなか地元には帰れていなかったそう。今回のグラビアのロケ地は広島と聞いて、率直にどう思ったか。
「父は2024年8月に亡くなりましたが、広島に降り立つと、かつて感じていた広島の空気を思い出して、毎回涙が出そうになります。今回は尾道での撮影でしたが、もし地元の呉だったら、病気で亡くなった父のことを強く思い出してしまって撮影にならなかったかもしれません。そういう意味でも、ちょうどいい距離感だったのかなと思っています」(竹中さん、以下同)
父親の病状について尋ねると「父には持病がありましたが、ずっと元気でいてくれると勝手に思い込んでいました」と振り返る。
「持病がある中でコロナに感染してしまい、もう難しいかもしれないというタイミングで帰省しました。久しぶりに会った父は意識もしっかりしていて、元気そうに見えたので少し安心したのですが、実際には体への負担は想像以上に大きく、主治医からは『余命1か月弱』と伝えられました。
父自身も『生きたい』という気持ちはありながら、治療の苦しさも分かっていたと思います。最終的に緩和治療に移るかどうかという判断の時は『わしじゃ決められんけぇ、母さんが決めてぇや』と話したそうです」
治療方針の選択は、限られた時間の中で家族に重くのしかかった。
「私もラジオ番組『華華天国』の生放送をこなしながら、沖縄と広島を行き来して何度も母と姉と義理の兄と4人で話し合いました。小さな治療ひとつでも判断が必要で、父に余命を伝えるかどうかなど、家族の中でも意見は分かれました。
何度も泣きながら話し合いをして、家族で同じ方向を向くことができたと思います。最終的には母が緩和治療に移る選択をしました」
竹中さんいわく「父は最後まで意識があった。余命を伝えたことが正しかったのかどうかは今でも答えは出ていません。けどあの時間があったからこそ、家族の絆はより深くなった」と振り返る。
家族が背中を押してくれたグラビア挑戦
竹中さんは、父親の最期には間に合わなかったが、話す機会はあったという。
「父が最後にくれた言葉が『知華が一番のべっぴんさんじゃ』という言葉。親バカだなと思いながらも、尾道での撮影はその言葉を思い出し、『ちゃんと写ってるかな』と、父を想う瞬間が何度かありました」
父親は竹中さんがアナウンサーになるために就職留年した時も応援してくれたという。
「父は造船所の多い呉市で船の部品を造る仕事をしていました。ゴツゴツした手をしていましたが、小さい頃はよく手を繋いでいろんな所に連れて行ってくれました。
私が大学生になり、アナウンサー志望だと伝えた時も『頑張りんさい、夢があるのは良いことじゃけぇ。応援するけぇ』と背中を押してくれました。いつも静かに味方でいてくれる、そんな存在でした」
かつて青森やNHK沖縄放送局でニュースを読んでいた時は、「録画したものを何度も繰り返し見てくれていた」とか。
「実家に電話をした時は『仕事がんばりんさいね』とよく言っていました。けどラジオ沖縄に入ってからは、スマホを持たない父には番組を聴く機会がなかったようです。
父が亡くなってから、母はradikoで番組を聴いてくれるようになりました。番組内で週刊プレイボーイさんからグラビアのご依頼が来て悩んでいるという話もしていたので、掲載された時にはすぐに買ってくれ、電話で『綺麗じゃったよ』と言ってくれました」
また、竹中さんの姉も「デジタル写真集を買ってくれて、LINEで『綺麗じゃったよ』と連絡をくれました。家族が応援してくれるのはありがたいです」と笑う。
「母は週プレさんからカレンダーブックが出ることを知った時も『買い方がわからんけぇ、叔父の分と私の分を送ってぇね』と変わらず応援してくれました。父は私のグラビアを見ていませんが、きっと『この子はこういうこともやりたかったんじゃね』と見守ってくれていたと思います」

