NETに移った三浦は、すぐに本領を発揮する。局内では大株主の東映、朝日、旺文社、日本経済新聞社の路線対立が続いていたが、三浦はテレビ行政に強権力を持つ自民党幹事長・田中角栄に接近し、問題を解決していった。
「三浦さんは局に来てすぐ、抜群の人心掌握術で『三浦派』というべき勢力を作り上げました。誰が敵で誰が味方か、誰を重用すべきか、その見極めが恐ろしく早かったんです。番組制作にも長たけていて、人材を見抜く慧眼も持っていました。だから、テレビ朝日の看板番組には、三浦さんが先鞭をつけたものが多いんです」
69年、新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」の放映が始まった際、三浦は初めからアントニオ猪木を看板に据える考えだったという。
「三浦さんは、公私にわたって猪木さんをかわいがっていました。猪木さんをNETの看板に据えることは、三浦さんの中では69年の時点ですでに決まっていたんです。だから、猪木VSアリの構想が浮かんだ時、三浦さんの頭の中には迷いなく猪木さんの名前が浮かんだ。長年の確信があったからです」
三浦の業績は枚挙にいとまがない。NETを教育専門局から一般局へと改組させ、大阪の準キー局を毎日放送から朝日放送へ切り替える「ネットチェンジ=腸捻転解消」(系列局の統一)を実現した。さらに、80年モスクワ五輪の独占放映権を獲得し、世間を驚かせた。
「モスクワ五輪の独占放送権なんて、当時のNETの規模では獲れるはずがありませんでしたからね。三浦さんは、長年、対日政策の責任者を務めていたソ連共産党国際部のコワレンコさんらを通じて、日本人として初めてブレジネフ書記長と直接会見をしているんです。一民放局の役員が、ソ連の最高権力者と直談判するなんて、誰が想像できますか」
三浦の人脈と豪腕は、日本政界にも及んだ。読売新聞の渡邉恒雄と組み、田中角栄に直談判し、中曽根康弘政権誕生に力を貸したのだ。
「私は何度も目撃しているんです、三浦さんが中曽根さんに電話をかけて、自分たちが飲んでいるクラブに呼び付けて歓談する場面を。電話1本で大物政治家が駆けつけるんですよ。あんな光景、見たことがありません。自民党の有力議員、派閥の領袖を掌中に収めてしまう人間力。それがあったからこそ、ブレジネフさんとも直談判できたんですよ」
新聞記者からテレビマン、そして政界の黒幕的存在へ─。三浦甲子二という男は、まさに「昭和」という時代が生んだ怪物と言える。渡邉恒雄と共に、マスメディアの力が抜群だった時代を象徴する傑物の一人であった。
「あの時代は、新聞とテレビの力が今とは比較にならないほど強かった。その力をどう使うか、どう人を動かすかを知り尽くしていたのが、三浦さんと渡邉さんでした。猪木VSアリ戦も、振り返ってみれば、そういう『昭和のメディア権力』が生み出した“1つの作品”だったのかもしれません」
舟橋慶一(ふなばし・けいいち)1938年生まれ。62年にNET(日本教育テレビ/現テレビ朝日)入社。アナウンサーとして「ワールドプロレスリング」実況など多数の番組を担当。
福田竜一(東京新聞)
写真提供/山内猛

