興行には“お化け”が必要―かつてアントニオ猪木が喝破したとおり、世紀の一戦の背景にも、政治とメディアの間でうごめく権力者というお化けたちが跋扈していた。フィクサー・三浦甲子二。彼が画策した絵図には、単なるテレビ局役員の立場を超える奇奇怪怪の人脈が機能していた。
これまでの舟橋の証言が示すとおり、猪木VSアリ戦のすべての局面において、決して表に出ることなく絵図を描いていたのが、NET(現テレビ朝日)常務・三浦甲子二だ。三浦は1924(大正13)年、長崎県の今里家に生まれ、ほどなく秋田県の母方・三浦家に養子に出された。その前半生については本人も多くを語らず、不明な点が多い。
大学時代、朝日新聞の発送部にアルバイトで入り、そのまま正社員登用されたようだ。その後、政治部記者に転じ、池田勇人、河野一郎ら大物政治家に深く食い込み、のちに読売新聞社代表取締役主筆となる渡邉恒雄、NHK会長となった島桂次と並ぶ「派閥記者」として名を馳せた。特に河野とは昵懇で「河野番」として朝日社内でも君臨することになる。
新聞社政治部では、記者は有力政治家の専任となる(番記者)。政治家が出世すると共に番記者の発言力も社内で高まっていく。河野番の三浦、大野伴睦番の渡邉─与野党実力者から独自にネタを取ってくることで、出世の階段を上っていった。
「三浦さんは新聞記者時代から怪物でした。一デスクに過ぎないのに、政治部長をしのぐ権限を持っていました。朝日新聞の一面は三浦さんの手で作られていたと言われるほどでしたからね。社主の村山家にまで食い込んでいました。一介の記者がそこまでやるなんて、聞いたことがありませんよ」(以下、カッコ内は舟橋談)
だが63年、朝日新聞社内で社主と経営陣が対立する「村山事件」が起こる。それによって三浦の後ろ盾だった経営陣が追放され、三浦は失脚。65年3月、日本教育テレビ(NET)に転じた。当時の朝日新聞社内では「私設常務」とまで呼ばれた男の、まさかの転落である。
「三浦さんご自身からは、あまりこの話を聞いたことがありません。ただ、突然すべてを失う経験があったからこそ、テレビ局で再起をかける三浦さんの執念はすさまじいものになった。失うものがあった人間と、最初から何も持たない人間とでは、勝負への執着の質が違うんです」
舟橋慶一(ふなばし・けいいち)1938年生まれ。62年にNET(日本教育テレビ/現テレビ朝日)入社。アナウンサーとして「ワールドプロレスリング」実況など多数の番組を担当。
福田竜一(東京新聞)
写真提供/山内猛

