
私たちの眼球の奥では、「光のセンサー」とも呼べる薄い膜が静かに働いています。
網膜と呼ばれるこの組織は、目に飛び込んできた光を電気信号に変換し、脳へ送り届ける——いわば「光をとらえるセンサー」にあたる部品です。
スペインのゲノム制御センター(CRG)を中心とする国際研究チームが、ブタ眼球の血管に酸素を含む体液に近い液を流し込んだところ、いったん失われた網膜の光応答がよみがえり、死後少なくとも10時間にわたって続くことを確認しました。
これまで、網膜は酸素の途絶にきわめて弱く、血流が止まればわずかな時間で不可逆的に壊れ始めるとされてきました。
さらに研究では、一度は失われた反応が、再び液を流すことで戻り、液の供給を止めると反応が消え、また流し始めると光応答がよみがえるという「スイッチ」のような現象まで確認されています。
著者たちは、この成果は「光への応答が死とともに終わるという通念に挑戦するものだ」と述べています。
研究内容の詳細は2026年6月30日に『bioRxiv』にてプレプリントとして発表されました。
目次
- 心臓移植のように眼球も丸ごと移植できないのか?
- ブタの網膜は死後10時間経過しても光に反応する
- ヒトの眼球へ応用できるか?
心臓移植のように眼球も丸ごと移植できないのか?

世界保健機関(WHO)の推計によれば、世界で22億人以上が何らかの視覚障害を抱えています。
加齢にともなう黄斑の変性、糖尿病による網膜の損傷、遺伝性の疾患——原因はさまざまですが、こうした網膜変性疾患の多くでは、現在の医療にできるのは進行を遅らせることが中心で、いったん失われた視力を取り戻す確実な方法は、まだ限られています。
しかし心臓も腎臓も肝臓も移植できる時代に、なぜ眼球だけは、丸ごと移植しても視力を取り戻せないのでしょうか?
理由は大きく二つあります。
一つ目は、網膜がとてつもなく「繊細」であること。
網膜は実は脳や脊髄と同じ中枢神経の一部であり、酸素の途絶に極端に弱いのです。
他の臓器ならクーラーボックスで冷やして数時間運ぶことができますが、網膜はそれだけでは十分に保てません。
冷蔵保存しても、24時間後には構造が崩れ、細胞の生存率も大きく落ちてしまうことが知られていました。
二つ目は、眼球と脳をつなぐ「通信ケーブル」の問題です。
視神経と呼ばれるこのケーブルは、一度切断されると、自然にはほとんど再生しません。
仮に眼球を完璧な状態で「運べた」としても、ケーブルがつながらなければ映像は脳に届かないままです。
2023年には、世界で初めて顔面の一部とともに眼球をまるごと移植する手術が行われ、その1年後に経過が報告されました。
眼球は生着し、血流も保たれ、網膜にも血液が通りました。
移植した眼に光を当てると、脳の視覚中枢が反応する可能性を示す信号は得られました。
こうした課題を背景に、今回の研究チームは眼球に血液を届ける血管(眼動脈)に細い管を差し込み、体液に近い成分をもつ液に酸素を溶かした溶液を、流量や圧力を調整しながら送り込む専用装置を開発しました。
圧力や流量はセンサーで自動調整され、網膜の状態をリアルタイムで観察できる窓も備わっています。
この装置を使うことで、繊細な網膜の機能を失わずにいられる時間を伸ばせるかを試しました。
ブタの網膜は死後10時間経過しても光に反応する

この装置を使い、チームはまず、人間の眼球と構造がよく似ているブタの眼球で実験を行いました。
24時間保存するブタの眼球を二つに分け、一方には灌流液を流し込み、もう一方にはなにもせずそのまま置きました。
この灌流液は体液に近い成分を持つ塩類溶液に酸素を溶かしただけ——いわば「酸素入りの塩水」です。
24時間後の状態を比べると、灌流液を流した眼球は網膜の構造がきれいに保たれ、細胞の生存率も高いままだったのに対し、なにもしなかった眼球は組織がはっきりと劣化していました。
「冷やして保存する」だけでは24時間で崩れてしまう網膜が、「流し続ける」ことで保てることがわかったのです。
これだけでも十分な成果ですが、チームはさらに踏み込みます。
保存された網膜は、果たしてまだ「光に反応する力」を持っているのか?
これを確かめるため、チームは36個のブタ眼球に灌流液を流し込みながら、光を当てたときに網膜が発する微弱な電気信号(網膜電図/ERG)を測定しました。
健康な目に光を当てれば特有の波形が現れる——これは眼科で日常的に使われている検査と同じ原理です。
結果、36個のうち15個の眼球(約4割)で、生きた動物と同じように、網膜の信号(ERG)に特徴的な波形が繰り返し現れました。
そしてその反応は、3つの眼で死後10時間、そのうち1つの眼では12時間まで続いたのです(施設の利用時間の都合で測定を打ち切ったケースも含まれており、さらに長く続いた可能性もあります)。
この結果は、酸素を含んだ灌流液を送り込み続けることで、網膜の働きを予想以上に保てることを示しています。
しかし、この研究のクライマックスはここではありません。
チームは、さらに決定的な追加実験を行っています。
光への反応が安定して出ている最中に、チームは灌流液の供給をあえて止めてみたのです。
すると信号はゆっくりと弱まり、やがて消えました。
ここまでは予想どおりです。
ところが、再び流し始めると——消えたはずの信号が、もう一度立ち上がったのです。
この「スイッチのON/OFF」のような現象が、3つの眼球で繰り返し確認されました。
この結果は、3つの眼という少数ながら、光反応の回復が灌流の有無ときれいに対応しており、反応が灌流に依存していることを強く示しています。
実は臨床の世界でも、今回の実験に似た現象は知られています。
一過性黒内障と呼ばれる症状では、網膜への血流が一時的に途絶えると突然視界が暗くなり、血流が戻ると視力も回復します。
体の中で起きるこの「血流と視覚の明滅」という結果と重なるものがあると言えるでしょう。

