
オランダのアムステルダム自由大学(VU)を中心とする国際研究チームの最新研究により、人類が賢く進化する過程で、心の不調につながる遺伝子の変化が現れたことが明らかになりました。
研究では、約500万年にわたる人類の進化の歴史を遺伝子レベルで細かく調べられており、流動的知性(未知の問題を解決する力)と呼ばれる知能の遺伝子変異が約50万年前に現れ、その後を追うように、精神疾患のリスクを高める遺伝子変異が約47.5万年前に現れたことが示されています。
つまり、人類の歴史では「頭の良さ」と「心の不安定さ」という、一見すると正反対の特徴が、まるでセットのように順番に出現してきたことになります。
このことは「人類は高度な知能を手に入れる代わりに、精神的な弱さという代償を払ったのではないか?」という問いを私たちに投げかけています。
人類の知能は精神不調と引き換えだったのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年8月13日に専門誌『Cerebral Cortex』で公開されました。
目次
- なぜ大きな脳の心は弱いのか?
- 人類の『知性』は『精神の不安』と引き換えだったかもしれない
- 精神疾患は進化の副産物なのか
なぜ大きな脳の心は弱いのか?

誰だって頭が良くなりたいものです。
頭が良ければ勉強や仕事は進み、人間関係も上手くいくと期待してしまいまいます。
ところが昔から「天才と狂気は紙一重」と言われます。
ずば抜けた才能を持つ人が、ときに心の不調に悩まされることはよく知られています。
そう考えると不思議です。
高度な知性は私たちにとって頼もしい力のはずなのに、逆に心の不安定さと結びつくことがあるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。
さらに人間では精神や神経の不調が、他の動物では見られない規模で報告されています。
たとえば、うつ病や不安障害、統合失調症といったこころの病は、日常生活に深刻な影響を及ぼします。
これだけ進化した脳を持ちながら、なぜ心はこんなにも壊れやすいのでしょうか。
そもそも人類の脳は進化の過程で大きく変化しました。
約500万〜600万年前にチンパンジーとの共通祖先から分かれて以来、人類の脳は著しい拡大を遂げています。
全体としては分岐後でおよそ3倍になりました。
特に直近の約200万年の間に、脳の大きさの増え方が速くなり、一気に大きくなったと考えられています。
人類はまるで急成長するベンチャー企業のようなスピードで、脳を進化させてきたと言えるでしょう。
中でも最も劇的に変化したのが大脳新皮質です。
これは脳の表面を覆い、高度な知能や社会性、言語、抽象的な思考を担います。
友だちとの会話を楽しむこと、複雑な計算を解くこと、将来を計画することができるのは、この新皮質が発達しているからです。
ただし化石の研究だけでは脳の外見しか分かりません。
脳がどんな能力を持ち、心の健康がどうだったのかという肝心の中身までは見えないのです。
つまり化石の証拠だけでは、「賢さと心の不安定さ」の進化を確かめるのは難しいのです。
しかし近年、化石以外にも人類の進化を探る新しい方法が登場しました。
それが私たちの体の設計図ともいえるDNA(遺伝子)を利用する分析です。
DNAは世代を超えて受け継がれ、進化の過程で少しずつ変化してきました。
ちょうど木の年輪が年齢や成長の環境を物語るように、DNAも過去に起きた多くの変化を記録しています。
このDNAの変化をたどれば、過去の進化を時間順に読み解くことができます。
そこで研究者たちは、ある仮説を検証しようとしました。
「高度な言語能力や認知機能を手にした結果として、心の脆さも増したのではないか」という仮説です。
具体的には、統合失調症などの精神疾患が、高い知能や複雑な言語の獲得と関係して現れた可能性があるという考えです。
この見方は魅力的ですが、これまで実証するのは非常に難題でした。
そこでオランダ・アムステルダム自由大学のイラン・リベディンスキー氏らの研究チームは、この謎に正面から挑みました。
彼らはDNAに刻まれた遺伝子の変化を読み解き、人類が「知性」と「心の不安定さ」をどのように進化させてきたのかを調べました。
もし本当に「賢さ」と「心の脆さ」が並走して進化したのなら、両者の登場時期にははっきりした順序や関連が見えるはずです。
人類の進化におけるその「皮肉な物語」は、ゲノムから浮かび上がったのでしょうか。
人類の『知性』は『精神の不安』と引き換えだったかもしれない

さて、研究チームはどんな方法でこの進化の謎を調べたのでしょうか。
彼らが使ったのは、私たちのDNA、つまり遺伝子に刻まれた過去の痕跡を調べるという方法でした。
遺伝子というのは、親から子へと受け継がれる、身体や性格、能力などを決める設計図のようなものです。
そしてこの遺伝子は、長い長い進化の歴史の中で少しずつ変化を繰り返し、今に至っています。
例えるなら、遺伝子は過去から現在までの歴史が書き込まれた年輪のように、それを調べることで、どんな変化がいつ起きたのかを読み取れるというわけです。
今回の研究では、人類の遺伝子(ゲノム)上に見られる「変異」と呼ばれる小さな変化に注目しました。
この変異が起きた年代を推測できるデータベースと、世界中の人々の遺伝子情報を集めた大規模な研究データ(GWAS:全ゲノム関連解析)を組み合わせました。
こうして約500万年前から現代に至るまで、人類の脳や認知能力、そして心の健康に関する遺伝的変化が、いつ頃起きていたのかを探ったのです。
こうして興味深い結果が見えてきました。
それは、脳や心に関する遺伝子変異が出現した時期に、はっきりとした順番があったということです。
まず、脳や神経の基本的な働き、つまり神経系全般に関する遺伝子の変化が最初に現れました。
この最初の変異の時期は中央値(データの真ん中)が約80万年前と推定されました。
その後で、より高度な知性や問題解決能力、つまり認知能力に関わる遺伝子変異が次に現れ、その時期の中央値は約68万年前でした。
そして流動性知性と呼ばれる未知の問題を解決する力は50万年前に変異の中央値があり、そのすぐ後を追うように精神疾患、つまりこころの脆さに関連する遺伝子変異が中央値で約47.5万年前という順番で登場したのです。
イメージとしては、人類の進化という長い一本道の上に、まず脳や神経の基本機能の「山」ができ、その次に高度な認知機能という「第二の山」、そして最後に精神疾患に関する「第三の山」が並んでいる感じですね。
実際、統計的にも、この「①神経系 → ②知能 → ③心の脆さ」という順序は有意に示されました。
つまり、人類は脳や認知能力を段階的に発展させながら、その過程で精神の不安定さも少しずつ背負い込んできたのかもしれません。
皮肉にも、賢くなるという「メリット」を得る代わりに、こころが脆くなるという「デメリット」も受け入れざるを得なかった可能性が示唆されました。
言い換えると、人類の祖先が高性能な脳を手に入れ、知性を高度化するにつれて、心の不調や精神的な弱さも同時に進化してしまったと考えられるのです。
研究を主導したイラン・リベディンスキー氏(アムステルダム自由大学 CNCR研究所)は、この結果について「人類の脳が進化する中で、知能の発達と精神疾患リスクの増加は、まるで交換条件のように同時に現れた可能性がある」と述べています。
つまり、知能という素晴らしい能力を手に入れるために、私たちは精神的な繊細さという代償を支払ったかもしれません。
さらに驚くべきことに、精神疾患に関する遺伝子変異の一部は、非常に最近になってから登場していました。
たとえば、うつ病のリスクを高める遺伝子変異は約2万4千年前、アルコール依存症に関連する変異も約4万年前という、進化の歴史から見ればごく最近の出来事だったのです。
まさに「つい昨日」と言えるような近い過去に、私たちのこころの弱さを引き起こす遺伝子変異が生まれていたのですね。
こうした最近の変化は、人類が農耕生活を始めたり、社会の仕組みが急激に変化したことと関連していた可能性があると報告されています。
実際、他の研究では農耕が始まった約1万年前以降、うつ傾向に関連する遺伝子が過剰に見いだされたとの報告もあります。
私たちのこころの不調という問題は、社会の変化に伴って進化的に加速した可能性があります。
また、今回の研究では、人間の「言語能力」が進化した時期についても新たな手がかりが見つかりました。
最近の改変を多く含む遺伝子が、言語を司る脳の部位で特に高く発現していたのです。
具体的には、脳の中でも「ブローカ野」という言語を扱う領域で、こうした遺伝子の活動が高い発現として観察されました。
言語というのは人間の知能の中心的な機能ですから、この結果は、言語の働きに関わる部位で比較的最近の遺伝的改変が目立つという手がかりを与えます。

