中央競馬のGⅠレースが地方馬に開放された1995年は「交流元年」「開放元年」と呼ばれる。それから30年近い時を経ているが、牝馬クラシックを沸かせたライデンリーダー、日本ダービーにまで駒を進めたコスモバルクなどの活躍馬がいたものの、地方所属のまま中央のGⅠを制した馬は今もってたった1頭しかいない。1999年のフェブラリーステークスを勝った岩手競馬(水沢)所属のメイセイオペラだけだ。
メイセイオペラはそれほど大きな期待を寄せられた馬ではなかった。母テラミス(父タクラマカン)のオーナーだった岩手の小野寺良正(馬主登録の名義は『(有)明正商事』)が、当時は無名だった高橋啓の牧場に彼女を預託(高橋啓はのちに1996年スプリンターズステークスを制するフラワーパークなどを輩出する)。少しでも長く楽しめればいいと、種付料が安価だったグランドオペラ(父Nijinsky)を交配、生産したのが栗毛の牡馬、メイセイオペラだったのである。
2歳になったメイセイオペラは岩手競馬(水沢)の佐々木修一厩舎へ預託され、7月に盛岡競馬場でデビュー。ダート1000mを逃げ切って勝利を収める。ところがその直後、オーナーの小野寺良正が病気で死去。妻・明子が良正の遺志を継ぎ、夫に代わってオーナーを務めることになる。ちなみに所有馬の冠号『メイセイ』は、明子の『明』、良正の『正』を繋げて訓読みしたものである。
その後、7着、2着、7着、3着と足踏みしたメイセイオペラだったが、11月の1400m戦で2着に6馬身(1秒2)差を付けて圧勝すると隠された能力が一気に開花し、9連勝を達成。そのなかには東北優駿、不来方賞というローカル重賞も含まれており、昇竜の勢いという例えがぴったりの大出世を遂げるとともに、“岩手に敵なし”と称されるようになる。 地元で頂点に立ったメイセイオペラの舞台は、必然的に地方競馬の他地区や中央との交流重賞へとシフトしていく。そしていよいよ中央のユニコーンステークス(GⅢ)に挑戦しようとした矢先、彼は馬房のなかで頭部を激しく壁に打ち付けたらしく、頭蓋骨骨折という重傷を負って休養に入る。幸いにして後遺症はなかったが、負傷明けに臨んだダービーグランプリ(JpnⅠ)、スーパーダートダービー(JpnⅡ)ではともに10着と大敗を喫してしまう。
4歳になったメイセイオペラは初戦となる川崎記念(JpnⅠ)で、当時交流重賞の中距離路線を制圧していた船橋のアブクマポーロ相手に4着と健闘。そして6月の帝王賞(JpnⅠ)では、アブクマポーロとの差を0秒4まで詰めて3着に入賞。着実に力を付けたが、それにはひとつの理由があった。
当時の地方馬は所属の競馬場のトラックを使ってのトレーニングだけが調教手段だったが、調教師の佐々木は川崎記念のあと、福島県に新設された天工トレーニングセンターに入厩させた。そこには坂路コース、屋内コースが備えられており、多角的かつ効率的な調教を施すことが可能だった。初めて天工トレーニングセンターから帰ってきたメイセイオペラを見た騎手の菅原勲や厩舎スタッフは、別馬のようにパンプアップされた馬体に驚きの声を上げたという。そして、その成長が帝王賞の3着好走に結びついたのである。
続くマーキュリーカップ(JpnⅢ)で2着に7馬身(1秒4)差の圧勝で交流重賞初制覇を遂げたメイセイオペラは、地元のローカル重賞みちのく大賞典も楽勝。次走は”天敵”と言ってもいいアブクマポーロも出走するマイルの交流JpnⅠ、南部杯に参戦。ここでメイセイオペラは圧倒的な強さを見せ、4角先頭から前年の覇者である中央のタイキシャーロックに3馬身差を付けて快勝。初めてアブクマポーロ(3着)に先着して留飲を下げるとともに、陣営はマイル適性の高さをあらためて認識した。
年末の東京大賞典(GⅠ)は再びアブクマポーロの2着に敗れたが、陣営は次の目標を中央のフェブラリーステークス(GⅠ)に定めた。南部杯で中央勢とアブクマポーロを一蹴したマイル戦ならば勝負になると読んでの参戦。しかもアブクマポーロは2000mの川崎記念へ向かうために不在。メイセイオペラにとっては絶好のチャンス、いや負けられない戦いとなった。 1999年1月31日。フェブラリーステークス当日の東京競馬場は午前中から大勢のファンの熱気で沸いていた。岩手からは大挙してメイセイオペラ応援団が詰め掛け、一般ファンにも地方馬の快挙に立ち会いたいとの思いで駆けつけた人が少なくなかった。
メイセイオペラの評価は、中央のワシントンカラー(4.5倍)にはわずかに届かない4.7倍の2番人気。それでも、オースミジェット、タイキシャーロック、キョウエイマーチなど、中央の一線級よりも分厚い支持を得ていた。
レースはメイセイオペラの独壇場だった。9番枠から好スタートを決めたメイセイオペラは、しばらく続く芝馬場も難なくクリア。すんなりと流れに乗って外目の5番手という好位置を確保。1000mの通過が60秒3というミドルペースを折り合って進み、慎重に馬群の外を回して直線へと向いた。
逃げたキョウエイマーチが粘るところ、坂下で菅原勲からゴーサインを受けたメイセイオペラはギアを上げてラストスパートに入る。その脚の鋭さは1頭だけ抜きん出たもので、一完歩ごとに前へ迫ると残り150mあたりでキョウエイマーチを交わす。そして力強く後続を突き放すと、2着のエムアイブランに2馬身もの差を付けて悠々とゴール。菅原は感極まった様子で右手でガッツポーズを作って喜びを爆発させた。そのときオーナーの小野寺明子は夫の遺影を手にしながら声を枯らして愛馬を応援していたという。
芝コースに入ってウイニングランするメイセイオペラと菅原勲を迎える満場の観客は、”イサオ・コール”でコンビを迎えた。
その後、6月の帝王賞(JpnⅠ)を4馬身差で勝利して貫禄を見せたメイセイオペラ。しかし右前肢の球節炎を発症して順調さを欠き、東京大賞典は11着に敗退。翌年のフェブラリーステークスも本調子には戻らず4着に、また続く帝王賞も14着に敗れてしまった。そして8月末のみちのく大賞典を楽勝して同一レース3連覇を達成。再度期待が高まったが、残念ながら左前脚の浅屈腱炎を発症。現役を引退して種牡馬入りした。
初年度から84頭に種付けする人気を博したメイセイオペラは、その産駒を輸入した韓国の競馬関係者から熱心な誘いを受け、3年間の期間限定でレンタルされた。当地では、三区のソスルッテムンが韓国の皐月賞にあたるKRAカップマイルに優勝するなどの活躍を見せた。そして2016年、日本への帰国を控えた7月1日。繋養先の牧場で心不全のために急死した。22歳だった。
フェブラリーステークスで快挙を達成したメイセイオペラと菅原勲を迎えるとき、熱狂とは明らかに違う、そこに流れた何とも温かなムードは本当に心地よく、つい笑みを浮かべてしまうような幸福感にあふれていたことが、今も記憶に残っている。(文中敬称略)
文●三好達彦
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