
日本の東京大学生産技術研究所(IIS)などで行われた研究によって、金属の中の水素原子が、いつ「粒子」になり、いつ「波」になるのか――その切り替えを制御するための手がかりが明らかになりました。
研究では、結晶の状態が変わるだけで、水素原子が複数の場所に存在確率を広げる、いわば「幽霊のような状態」にも、1カ所にじっと留まる「普通の状態」にもなりうることが示されています。
なぜ結晶の形がほんの少し変わるだけで、水素の量子的な性質がこれほど劇的に変化してしまうのでしょうか?
研究内容の詳細は、2026年7月15日に『Nature Communications』にて発表されました。
目次
- 水素は粒子と波の境界がとても曖昧
- 「水素がいつ粒子になり、いつ波になるのか」鍵は結晶だった
- 量子トンネル効果を2点の溶け合いと考える
水素は粒子と波の境界がとても曖昧

水素は、この宇宙で最も軽い原子です。
そのため水素は「小さな粒(ボール)」としてだけでなく、電子のように「波」としての性質が、ほかの原子核よりも表に現れやすいという特徴を持ちます。
同じ水素が粒子のときは「今、ここに1個ある」と言える状態になり、波のときは「ここにも、あそこにも、ぼんやり広がっている」という状態になるのです。
ここでいう「波」とは、揺れて進む海の波のことではありません。
量子の世界では、そもそも水素の居場所がはっきり一点に決まらず、「このあたりにいそう」としか言えないという意味なのです。
この「いそうな度合い」を、濃いところと薄いところとして空間に塗り分けると、輪郭のない、ぼんやりとした「存在確率の雲」ができあがります。
水素が「波」であるとは、要するに、この雲のように居場所がにじんで広がっているということなのです。
先ほど触れた「幽霊のような状態」とは、まさにこの雲のように、水素があちこちに同時ににじんでいる姿のことでした。
そして、この波であることの「特技」が、量子トンネル効果と呼ばれる現象です。
ボールを壁に投げつければ、当然ながら跳ね返ってきます。
ところが波は、壁で完全には止まりきりません。
雲の「裾」が、壁の向こう側にまでほんのり染み出してしまうことがあるのです。
裾が向こうに届いているということは、「壁の向こうで水素が見つかる可能性がゼロではない」ということです。
だから、壁の手前にいたはずの水素が、越えられないはずの壁の向こうに、ふっと姿を現す――そんなことが起こりうるのです。
では、水素はいったい、いつ粒になり、いつ波になるのでしょうか。
その答えを得るため、研究者たちはバナジウムという金属を用意しました。
バナジウムの原子は規則正しく並んで結晶をつくっていますが、原子と原子の間にはわずかな「隙間」があり、水素1粒がちょうど収まる大きさになっています。
水素にとってバナジウムの結晶は、建物中にびっしりと座席が敷き詰められた、巨大な映画館のようなものと言えるでしょう。
そのためバナジウムは水素を大量に吸収(吸蔵)できる金属として、水素を貯蔵する手段への応用が期待されています。
ところが、バナジウムの中で水素がどのように動き回るかについては、まだ分かっていないことがありました。
とりわけ実験データが乏しかったのが、低温の世界です。
温度が高ければ、水素は高い運動エネルギーによって席から席へ移動していきます。
ところが温度をぐっと下げていくと、熱の力による乗り越えは、だんだん起きにくくなります。
その代わりに顔を出してくるのが、量子的な効果による席替え(トンネル効果)です。
席と席が適度に近く、存在確率の雲の端が隣の席にわずかにかかれば、水素は席替えを起こすことができるからです。
ただ、このような低温の世界で、水素がどこまで「粒子」として動き、どこから「波」として動き始めるかは、十分に理解されていませんでした。
水素の動き方の種類と速さは、材料としての性能を左右します。
そのため、「水素がどのような仕組みで、いつ速く動くのか」を解き明かすことは、応用のうえでも大切な宿題だったのです。
「水素がいつ粒子になり、いつ波になるのか」鍵は結晶だった

そこで今回、研究チームはまず、約マイナス238度(35ケルビン)という極寒の中で、極薄のバナジウム膜を用意し、そこへ水素を撃ち込みました。
温度が高いと、水素は熱エネルギーを借りて、壁を勢いよく乗り越えてしまいます。
これは粒子としての、いわば力ずくの移動です。
ところが、キンキンに冷やして熱の力を大幅に弱めれば、この力ずくの乗り越えは、ほとんど起こらなくなります。
にもかかわらず、水素が速く動くなら、熱による乗り越えだけでは説明がつきません。
そこで、波として壁を「すり抜ける」量子トンネルが、有力な候補として浮かび上がります。
極寒は、水素の隠れた「波の顔」をあぶり出すための、巧妙な舞台装置だったのです。
この状態で研究者たちは、水素がどれくらいの速さで広がるかを実験で調べました。
すると、水素が多い領域と少ない領域とで、動き方が大きく異なることが見えてきました。
まず、水素がまばらにしか存在しない領域では、水素はあっという間に膜全体へ広がりました。
計算によれば、1秒の間に、およそ33マイクロメートルの範囲まで広がれるほどの速さでした。
これは膜の厚さ40ナノメートルの約800倍であり、隣り合う席と席の間隔に換算すると、およそ30万個分にも相当します。
極寒の中でこれほど広がれたのは、トンネル効果が働いていたからです。
一方、水素がぎっしり詰まった状態では、水素はトンネル効果による動きをほとんど見せませんでした。
では、まばらな状態と混雑した状態とでは、いったい何が変わっていたのでしょうか?
答えは、結晶の「形」でした。
水素がまばらなとき、バナジウムの結晶は、きれいに整った立方体の形を保っています。
角がそろった、几帳面に片付いた部屋のようなものです。
このとき、水素にとっての席は、隣もそのまた隣も「瓜二つ」です。
実はトンネル効果は、トンネルの入り口と出口の状態が似ていると、起こりやすくなることが知られています。
普通、私たちは「動くもの」と「その行き先」を、別々のものとして考えます。
ボールがどこへ飛ぶかはボールの投げ方次第であり、壁の向こうの床がどうなっていても、飛んでいくボールには関係ないと思うでしょう。
ところが量子的な波の状態にある水素にとっては、今いる席の状態と移動先の席の状態とが、分かちがたく結びついています。
行き先の席が今いる席と同じ状態にあれば、水素の波は行き先でも同じ状態になりやすく、響き合うようにして向こうへにじみ出やすくなるからです。
波の言葉で言い換えれば、水素の波は席と席の間で「つながって」初めて、向こうへ流れ込めると言えるでしょう。
そのため、2つの席の状態がそろっているほど、そのつながりも生じやすくなります。
ところが、水素をぎっしり詰め込むと、結晶内部に多数の水素が入り込んで、結晶の形が変わってしまいます。
結晶というと、水晶のように動かない固体を思い浮かべるかもしれません。
しかし金属の結晶格子は、原子がバネでつながった柔らかい骨組みのようなものであり、隙間に何かが入れば、たとえ水素のように小さなものでも、その形を変えます。
その結果、きれいな立方体が、一方向に伸びた箱形へとゆがみます。
すると、先ほどまで瓜二つだった席が、ちぐはぐな状態になってしまいます。
こうして、席と席をつなぐ波がつくられにくくなり、トンネルも起こりにくくなるのです。
こうなると、熱の力で壁を乗り越えることも、もはや容易ではありません。
その結果、ゆがんだ結晶では、波としての近道であるトンネルが強く抑え込まれ、熱を使った移動も、低温ではひどくのろのろとしか進まなくなったのです。

