
第二次大戦中、親を失い、病気と飢えに苦しみながら、何千キロもの距離を移動してきたポーランド人の孤児たちがいました。
子どもたちを乗せた軍用トラックが、インド西部グジャラート州の海岸近くにある施設へ到着すると、門の前で一人の男性が待っていました。
男性は、痩せ細った子どもたちに向かってこう語りかけます。
「自分たちを孤児だと思ってはいけません」
彼の名は、ディグヴィジャイシンジ・ランジットシンジ・ジャデジャ。
当時、インド西部にあったナワナガル藩王国を治めていたマハラジャ(統治者)でした。
彼は、ほかの国々が受け入れなかったポーランド人の孤児たちに、自らの領地を開放したのです。
彼が救った孤児の人数は、資料によって異なりますが、推定で600人から1000人とされています。
後にポーランドの人々は、彼を親しみと敬意を込めて「善きマハラジャ」と呼ぶようになりました。
そんな、インドの英雄「善きマハラジャ」の物語を追ってみましょう。
目次
- ポーランドの戦争孤児たちを受け入れたマハラジャ
- インドの村に誕生した「小さなポーランド」
- 孤児を養子にして、ソ連の魔の手から守り抜く
ポーランドの戦争孤児たちを受け入れたマハラジャ
ポーランドの悲劇は、1939年9月にはじまりました。
まず、西側からナチス・ドイツに侵攻され、その16日後にはソ連が東から侵攻してきました。
ポーランドは、ドイツとソ連という2つの大国によって分割されることになったのです。
1940年2月になると、ソ連はポーランド市民の大規模な強制移送を開始。
軍人、公務員、教師、地主などの知識人層とその家族、推定32万人から50万人が、シベリアやカザフスタンの強制労働収容所へ送られています。
移送には、真冬にもかかわらず暖房のない家畜運搬用の貨車が使われました。
多くの人が移動中に命を落とし、生き残った人々も収容所で飢え、寒さ、病気、過酷な労働に苦しみました。
子どもたちのなかには、移送の途中や収容所で両親を失った者もいました。
しかし1941年6月、状況が大きく変化します。
ナチス・ドイツがソ連へ侵攻したため、それまでポーランドを占領していたソ連は、ドイツと戦うためにポーランド側と協力せざるを得なくなったのです。
翌月に結ばれた協定により、ソ連領内に拘束されていた多くのポーランド人が解放されました。
その後、女性や子どもを中心とする数万人のポーランド人が、ソ連からイランへ避難しました。
ところが、イランへ逃れた後に彼らがどこへ行くのかは決まっていませんでした。
ポーランド人難民を英領インドへ移す案も出されましたが、現地の行政当局は難色を示しました。
子どもたちの多くは、結核、発疹チフス、赤痢、栄養失調に関連する病気を抱えており、受け入れには医療、食料、住居の確保が必要だったからです。
インド自身も戦時下の深刻な食料不足に直面しており、大勢の難民を受け入れる余裕はないと考えられていました。
そこで立ち上がったのが、ナワナガル藩王国のマハラジャ、ディグヴィジャイシンジでした。

彼は1895年に生まれ、イギリスで教育を受けた後、軍人として活動し、1933年に叔父の後を継いでナワナガルの統治者となっていました。
第二次世界大戦中には、イギリスの帝国戦時内閣などにも参加しており、そこでポーランド人の孤児たちが置かれている状況を知ったのです。
当時、インドの藩王国の統治者としての権威は、イギリス国王からの承認によって支えられていました。
イギリス側が正式な受け入れ方針を決める前に独断で行動すれば、自らの立場を危うくする可能性もありました。
それでもディグヴィジャイシンジは、戦争孤児たちを自分の客人として迎えると宣言したのです。
彼には、ポーランドとの歴史的なつながりも、難民を受け入れる政治的な利益もありませんでした。
それでも彼は、子どもたちが自分のもとへ送られてきたのなら、世話をすることが自分の務めだと考えたのです。
インドの村に誕生した「小さなポーランド」
1942年、ディグヴィジャイシンジは、カーティヤーワール半島の海岸沿いの村に、ポーランド人の子どもたちを受け入れる施設を設けました。
場所は、マハラジャが所有する夏の宮殿の近くでした。
施設は、子どもたちを雨風から守るだけの避難所ではありません。
敷地内には、宿舎、学校、図書館、厨房、カトリック教会が用意されました。
細長い宿舎が数十棟建てられ、それぞれ約30人の子どもが生活できるように設計されていました。
子どもたちと一緒にソ連から避難してきたポーランド人教師が、学校の授業を担当。
当初は校舎として使える建物がなかったため、マハラジャは自分の迎賓館を学校として提供しました。
食事にも工夫が施されています。
ポーランドの子どもたちは、香辛料の強いインド料理に慣れていませんでした。
そのため、マハラジャは地元の料理人を雇い、子どもたちが食べやすいように辛さを抑えた料理を作らせました。
長い間、飢えや病気に苦しんできた子どもたちにとって、施設は初めて安定した生活を送れる場所となったのです。

マハラジャは、子どもたちの生活からポーランド文化を消そうとはしませんでした。
むしろ、祖国を失った子どもたちが、自分たちの文化や民族的な誇りを保てるように配慮しました。
施設では毎日ポーランド国旗が掲げられ、子どもたちはポーランド国歌を歌いました。
カトリックの礼拝や復活祭、キリスト降誕劇といった宗教行事も行われました。
学校では演劇や文化公演が開かれ、サッカー、バスケットボール、バレーボール、フィールドホッケーなどのスポーツも盛んに行われました。
最初はボールさえ不足していたため、子どもたちは宿舎にいる男子の靴下を集めて、自分たちでボールを作ったといいます。
やがて子どもたちのチームは、地元のインド人やイギリス軍のチームと対戦できるほど上達しました。
マハラジャも試合を観戦し、子どもたちに拍手を送りました。
クリスマスには、自らサンタクロースの格好をして施設を訪れ、子どもたちにプレゼントを配ったこともあったと伝えられています。
彼は子どもたちを、単に保護すべき難民とは考えていませんでした。
自らをナワナガルの人々の父を意味する「バープー」と呼び、ポーランド人の子どもたちも自分の子どもだと語ったのです。
戦争中に施設を通過した子どもの総数について、歴史資料は、2歳から15歳までの約600〜1000人としています。

