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「小指1本では許してもらえなかったでしょう」医師である中村哲はなぜ白衣を脱いだのか…アフガンの荒地を長大な用水路で潤す“緑の大地計画”で、中村が命をかけて挑んだこと

「小指1本では許してもらえなかったでしょう」医師である中村哲はなぜ白衣を脱いだのか…アフガンの荒地を長大な用水路で潤す“緑の大地計画”で、中村が命をかけて挑んだこと

覚悟の“独断専行”

2003年11月上旬、クナール川は水量が減って水が澄み、(※右岸の)ジャリババの取水口を築く地点の川面には広大な中州が現れた。夏の洪水期に、対岸(※左岸)のカシコートまでの川幅400メートルいっぱいに濁流が下っていたのが嘘のようだ。

工事を統括するのは技術責任者のディダール(※アフガン人の技術者)だ。中村は病院での診療も忙しく、たまに現場に来てディダールの報告を聞いて指示を出す。それを現場監督のエンジニアたちが作業員に伝えて工事を進めていた。

ディダールは、ダンプカーで運ばせた巨大な石や土砂を、右岸の取水口を設ける地点より200メートルばかり上流から中州に向かって投入させ、突堤を築き始めた。突堤と中州がつながれば、右岸側を閉塞できる。そうして干上がった川床に重機を入れて巨石を置き、蛇籠を組み上げれば、堰や取水口を悠々と築けるはずだった。

ところが、川は生き物のようだ。突堤を延ばせば延ばすほど、押された川水は突堤の先へと逃げる。突堤と中洲の間隔が狭まるにつれて流れが速まった。中洲と突堤の距離は十数メートルに縮まったが、その間に激流が生じ、巨石や蛇籠を投じてもあっという間に流された。

そのうえ、突堤を延ばした分、川水は(※左岸に沿う)分流に押しやられて、カシコート側の岸の土砂を削って洗い流し、洗掘が起こる。放っておけば分流は勢いを増して左岸の堤を越えて、その先の農地に浸水しそうだった。

鈴木学は、為す術のない突堤を眺め、この状態では春までに用水路に水は引けない、と直観した。春にクナール川の水が増水すれば川床の工事は中断される。不完全な用水路は、豪雨による崩壊や、洪水、人身事故などの危険をはらむ。この絶体絶命の危機を、中村にどう伝えればいいか、鈴木は熟考した。

水路工事には、鈴木より1歳上のワーカー、清宮伸太郎も携わっていた。

鈴木は、密かに清宮に相談した。

「誰かが左岸に回って護岸の工事をしなくちゃ、向こうの農地は台なしになります。それに右岸の川床を干すには、中途半端な突堤では無理です。中州の地面を、上流から下流方向へエクスカベーター(油圧ショベルカー)で掘り進め、新しい河道を通して水を逃がさなくてはダメだ。匙加減が難しいけど、とにかく左岸側からの工事が必要なんですが、どうしたものか……」

「そうですか。じゃあ、自分がオペレーターと一緒にショベルカーを向こうに運んで、掘削作業をしましょうか」
と清宮は応じた。「ほんとうですか。お願いします」と鈴木は頭を下げた。

鈴木と清宮の判断は、ワーカーの身のほどを超えていた。

日本人のワーカーはサポート役であり、指揮系統を無視した口だしは許されなかった。

鈴木と清宮は、中村の許しを得ず、“独断専行”で対岸の工事に踏み切った。

鈴木は中村に相談もせず、なぜ、独断でおこなったのか。

「清宮さんも僕も、何かあれば死ぬだろうと覚悟して用水路にかかわっていました。とにかく水を通したかった。そこで、先生に、このままでは水路はできません、日本人スタッフを現場に張りつけないと、この事業は失敗しますよ、と伝えたかったんです。でも、口で言うのは憚られました」

と鈴木は、長い間、うちに秘めてきた思いを語りだした。

「下の者が、こうしたほうがいいと、批判的なことを口にしたら日本に帰されそうでした。まして、僕はアフガンに入って1年目。先生に、こうしたらいいとはひと言もいわず、接していました。だけど、土木の世界は厳しい。川と格闘して、やるかやられるかの局面に立って、行動で表すしかなかったんです。それに先生は、黙して語らず、という日本男児風の美学を持っておられた。

それは、パシュトゥン人(※多民族国家のアフガニスタンで最大の民族)の気風にも通じます。行動で察し合えればベストです。重機を対岸に回した意味を、もしも先生がわからなければ、あなたはぼんくら上司だ、この事業は失敗する。日本の帰れと言うなら、やることをやったので帰ってもいいじゃねぇか、と腹をくくりました」

中村は白衣を脱いだ

左岸に重機が渡って間もなく、中村がジャリババの現場にきた。

中村は、自分が指示してもいない対岸にショベルカーがあるのを見て、ハッとする。心のスイッチが入り、目に獣のような光が宿った。鈴木が呼ばれ、状況を説明すると、中村はいきなり、ずかずかと工事中の水路に入った。そのようすが鈴木の瞼に浮かぶ。

「全身に気合がみなぎって、水路のなかで、こうやって石を積めばいいんですよッ、と現場のエンジニアを怒鳴りつけ、自ら石を抱えて積もうとされました。指示どおりにやりなさい、と叱咤しましてね。僕らは怒られませんでした。

そこから先生の目の色が変わりました。現場に張りついて、僕らと一緒にダラエヌールのスタッフハウスに泊まって、現場に通うようになったんです。医療界の権威に裏打ちされたピラミッド型の世界から、みんなで一緒に汗をかかなきゃつくれない用水路の肉体労働の世界に入ってこられて、先生は解放されたようでした。大きな転換だったと思います」

中村は、30年間着た白衣を脱いだ。

2004年(平成16年)1月下旬、中村は、難関の堰の構築に挑んだ。

2月に入って、透明だった川水が雪どけの土を含んで緑がかり、増水の兆しが表れた。

中村は河原に下り、ダンプカーを誘導して、築後川の山田堰のように川上に向かって斜めに巨石と蛇籠を投入する。石が受ける水圧が弱まり、堰は延びた。

ワーカーたちは、馬車馬のように働いた。

鈴木は、蛇籠で取水口の土台をつくる。

斜め堰が川上へ延びるとともに、川水がせき上げられ、取水門のほうへ流れてきた。

2月27日の朝、突然、中村は、水門を開け、とスタッフに命じた。

午前10時、作業員が土嚢を取り除き、鈴木が膝まで水に浸かって、川水を止めていた堰板を外し、水門を開いた。川水がどっと水路に流れ込む。

水路に下りた中村は、流れてくる水を招き入れるようにゆっくり後ずさりしながら顔を上げ、
「おーい。見においでー」とワーカーたちに声をかけた。

そのシーンは、カメラマンで映画監督の谷津賢二が撮影したドキュメンタリー作品『荒野に希望の灯をともす~医師・中村哲 現地活動35年の軌跡』(日本電波ニュース社)に収められている。

数年後、谷津は「もしも水が通っていなかったら、どうなっていたでしょうねぇ」と中村に訊ねた。すると、中村は、「小指1本では許してもらえなかったでしょう。片腕1本、切り落として、詫びるしかなかった」と答えたという。

「難民が続々と帰ってきて、大勢が心待ちにしていて、水を通せませんでした、これで帰りますとは言えない。ただ、わたしも人の親、腹を切るわけにはいかない、と中村先生は、ほんとうに片腕を切り落とすような険しい目つきで言ったんです」と谷津は語った。

文/山岡淳一郎

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