
アメリカのコロンビア大学(Columbia)などで行われた研究により、1935年に生まれた「紐の絡み合い」についての数学の難問に、90年越しの答えが示されました。
論文の著者3人のうち1人「ジョーン・バーマン」氏は、公開時点で99歳の数学者です。
この問題には多くの数学者が挑み、コンピュータも使われましたが、誰も答えを出せませんでした。
しかも出てきた答えは、多くの研究者が賭けていた方向の、逆でした。
研究内容の詳細は2026年7月6日、プレプリントサーバーである『arXiv』にて発表されました。
目次
- こんがらがった紐には、2種類ある
- 99歳の数学者たちは「反例がないこと」を証明した
- なぜ、4と5のあいだなのか
こんがらがった紐には、2種類ある

カバンからイヤホンのコードを取り出すと、たいてい、ぐちゃぐちゃになっています。
ここで誰もが一瞬迷います。
これは本当に結ばれてしまったのか、それとも散らかっているだけで、引っ張ればスルッとほどけるのか。
見ただけでは、わかりません。
もつれた輪がやっかいなのは、そこに順番がないからです。
からまったイヤホンのコードをどれだけ見つめても、「まずここが通って、次にここをくぐって」という順序は読み取れません。
人間が勝手に順番をつけることはできますが、それでは意味がありません。
どこから読み始めるかは読む人の気分次第ですし、次にどの交差へ進むかも自由です。
同じ絡まりを二人が別々に書き写せば、まったく違う記録ができあがってしまいます。
そこで数学者は、もつれの本質に目をつけました。
それは、どんな結び目も、ある組みひもの上端と下端をつないだ形として表せるという点です。
三つ編みには、上と下があります。髪を編むとき、人は必ず上から一手ずつ進み、途中で下から上へ戻ることはありません。
だから、どこから読み始めても上から下へという向きは同じになります。
「1番と2番を交差」「2番と3番を交差」——読み方のわからなかった塊が、上から下へたどれる手順の記録に変わりました。
この「編み方」を「数字の表」に翻訳する方法を、1935年にドイツの数学者ヴェルナー・ブラウが考案しました(ブラウ表現/Burau表現)。
そしてこの表は、もつれの名札になるはずでした。
こんがらがり方が違えば、表の内容も違ってくると期待されていたのです。
ただ、翻訳にはいつでも同じ落とし穴があります。
日本語の小説を英語に訳すと、日本語の微妙なニュアンスが英訳で消えることがあります。
その試験になったのが先ほど触れた「見かけだけこんがらがっている状態」でした。
絡まったように見える紐でも、実は結び目が一つもなく、左右を引っ張るとスッと一本にもどってしまうものがあります。
引っ張るとスッと一本に戻ってしまうコードは、途中が複雑そうに見えても、結局は一本の紐で、その間には絡み合いは存在しません。
そのためそれを絡み合いの個性や名札となる数字の表に翻訳すれば「何もない」「名無し」と出るはずですし、それで正解です。
では、こんなひもがあったらどうでしょう。
端の位置を固定したままでは、どうやってもまっすぐに戻せない、複雑に編まれた組みひも。それなのに、数字の表に翻訳すると「何もしていない」と表示される。
こうなると、名札は役に立ちません。
数学的に違うはずの2つの組みひもが、行列という名札の上では見分けがつかなくなってしまう、ということです。
絡み合いを識別する装置を作りたかったのに、その装置が両者を取り違えてしまっては失格です。
目の前のもつれが確かに抱えている情報が、翻訳の途中でこぼれ落ちてしまっているからです。
いわば、機械には見えない幽霊です。
ブラウの翻訳は、こういう失敗を起こすことがあるのではないか。
その危惧は、残念ながら当たっていました。
もつれの本数によって、合格したり失格したりしたのです。
ここでいう本数とは、三つ編みの形に整えたときに使う紐の本数(水平にスパッと切った断面に現れる点の数)のことです。
3個なら3本、5個なら5本となります。
編み方をどれだけ複雑にしても、本数そのものは増えません。4本の紐は、何十回交差させても4本のままです。
そして本数が増えるほど、翻訳が取り違える余地も広がっていきます。
まず1969年、3本までの組みひもについて、翻訳が情報を一切落としていないことが、直接的な計算によって証明されました。
小さな規模ではブラウの名札は完璧に機能していました。
ところが1991年、9本以上では翻訳が失敗していることを示す幽霊の事例が紛れ込むことが示されました。
しかも、その失格ラインは下がり続けます。
1993年に6本以上、1999年には5本も失格となります。
3本までは合格で5本以上は失格というわけです。
ただその間にある4本については、わかっていませんでした。
コンピューターの演算能力は1999年から27年の間に飛躍的に進歩しましたが、誰も合格か失格か証明できませんでした。
99歳の数学者たちは「反例がないこと」を証明した

なぜ4本の合否判定に、数学者たちは苦戦していたのでしょうか。
理由の1つが思い込みでした。
多くの研究者は「5本で破綻するなら、4本もどうせ破綻するだろう」と思い込み、破綻するケースを探していたのです。
もし1例でも破綻する場合を特定できれば、証明としては十分です。
だから、みんな探しました。膨大な数の組みひもを、手当たり次第に計算させました。
しかしそれでも、見つかりませんでした。
そこで今回の研究チーム——コロンビア大学のジョーン・バーマン氏、グラスゴー大学のタラ・ブレンドル氏、プリンストン大学のヴァスダ・バラトラム氏の3人は、前提のほうが間違っているのではないかと考えました。
「4本もどうせ破綻するだろう」という多くの人々の思い込みを捨てて、4本では「翻訳によって情報が消える現象が起こり得ない」と証明することにしたのです。
いわば反例が存在しないことの証明と言えるでしょう。
結果、この戦略は当たります。
多くの人々の予想を裏切り、4本の場合でも完全な翻訳は完璧ができていたことが示されました。
4本の場合には情報が消えてしまうことがなかったわけです。
具体的には、こんがらがった紐を数字の表にする過程では、1本の線をもう1本が横切るたびに、プラスかマイナスの符号と、その交差を書き込む欄の番号がつけられます。
ですが情報が消える手口は、別々の交差点が同じ欄に落ちてきて、そこにプラスとマイナスが同居する場合しかありませんでした。
逆に言えば、同じ欄にはプラスしか来ない(あるいはマイナスしか来ない)ことさえ保証できれば、打ち消し合いは起きず、その組みひもの情報は消えずに残ります。
3人は、この打ち消しが起きる条件に、きれいな規則があることを見つけました。
そしてこの規則を使うと、すでに合格とわかっている3本の場合を、新しいやり方でもう一度証明できたのです。
ところが最後にどうしても規則からはみ出す「はぐれ者」が、たった一種類だけ残りました。
ここで3人は、驚くべき一手を打ちました。
目印の点をもう一つ置いて外から確かめるという手法です。
いわば、判定が割れたときに立会人を一人呼んでくる、というやり方です。
奇策に見えますが、使われているのはこの分野で長く磨かれてきた標準的な道具立てで、論文ではこれを「Embedding in B5(B5への埋め込み)」と呼んでいます。
そしてこの立会人の前では、最後まで残っていたはぐれ者もまた、情報を失っていないことが示されました。
こうして4本が数字の表に完全に翻訳できることが示されたわけです。
世界中の研究者たちが反例を探す中で、反例が存在しないことが証明できた瞬間でした。

