「蔦先生を批判する記事が出たっちゅうのは聞きました」池田高校を1979年夏の甲子園準優勝へ導いたエース・橋川正人さんは、名将・蔦文也監督をそう振り返る。野球をやめようとしていた少年に「これやるから野球せえ」とグラブを手渡した恩師との出会い、そして世間で語られる"鬼監督"とは異なる素顔とは――。甲子園を沸かせた師弟の原点を明かした。「監督、神になる 池田高校記憶の衝突」より一部を抜粋、編集してお届けする。
挨拶から一転、重くなった空気
「さわやかイレブン」から5年後の1979年、池田は再び全国的な脚光を浴びることになる。
その年の夏の甲子園で準優勝したエース、橋川正人は蔦が自著『攻めダルマの教育論』で頻繁に言及している生徒だった。頑固で負けん気が強い橋川を「しょうのないやっちゃ」と言いながらも、可愛がっていた様子がうかがえた。
橋川が指定した徳島中西部、美馬IC近くにあるカフェは、平日の午前にもかかわらずほぼ満席で、楽しげな会話でさざめいていた。先に着いたわたしは唯一空いていた二人席に座った。
約束の時間ちょうどに橋川が店に現れた。髪をセンター分けにした優しげな横顔が、こちらを向いてニコリと微笑む。
簡単な挨拶を交わしたあと、飲み物を選んでいると「もし、まだだったら朝ごはん食べながらで大丈夫ですからね」そう言って橋川はわたしを気遣った。
取材の趣旨を説明し終えると橋川は、憮然とした表情で言った。
「蔦先生を批判するような記事が出たっちゅうのは聞きました」
挨拶から一転して空気が重くなる。
蔦はさわやかイレブンの代の部員たちに多くを語らなかった。息子である隆司も「父のことはあまり知らない」と言った。そんな蔦が折に触れて名前を出した選手がいるならば、その人から蔦に対する考えを聞きたかった。そのように伝えた。
「蔦先生の本で僕の名前がよく出てきているのは知ってます」と橋川は沈黙を破るように言った。質問を許してくれた。そう感じて、わたしは取材をはじめた。
橋川は1977年に池田へ入学した。地元の川島中学時代、野球部に在籍していたが目立つような成績は挙げていない。地区大会で一回戦負け、県大会にも不出場であった。したがって橋川は、地元の川島高校に進んでサッカー部に入るつもりでいた。
「蔦先生から詳しく聞いていないから詳細はわからないのですが」と、池田野球部に入ることになった経緯を橋川が説明した。
当時、県下有数の強豪だった池田中学と川島中学の試合があった。池田中を相手に好投した橋川は、中三の三学期、担任教諭に呼び出された。連れて行かれた先に、ひとりの男が座っていた。蔦だった。
「僕らの代は、上級生を犠牲にしとるんです」
池田高校の近隣にある池田中の野球部長と懇意にしていた蔦は、試合での橋川の好投について伝え聞いたのだろう。
蔦が橋川にかけた言葉は一つ。「これやるから野球せえ」そして、渡したものは三つ。グローブとバットとボールだった。橋川は舞い上がった。小学六年生の時にテレビで見た、さわやかイレブンのあの人が自分に期待を寄せてくれたのだ。
池田へ入学する意思を固めるには、十分すぎる出来事だった。
橋川の地元、吉野川市(当時・麻植郡)は徳島県の中部に位置する。通学にかかる時間は汽車(気動車)でおよそ1時間20分ほど。自宅から通う場合、練習時間が限られる。その環境が橋川が入る代で変わった。寮ができたのだ。
橋川の代は、池田野球部初の寮となる「大和寮」の第一期生にあたる。県下の遠方に住む中学生が、池田野球部を現実的な選択肢として考えられるようになった。
蔦にとっても有望な生徒を勧誘できる範囲が広がった。池田に集まる生徒の出身地域は、さわやかイレブンの時代は池田町周辺に限られていたのが、橋川の代から徳島中央部まで、そして80年代以降は徳島全域、さらには全国へと広がっていく。
橋川の時代も、依然として多くの部員が途中で辞めていった。入部してレギュラーの見込みがないと判断した部員はたいてい去った。25人が入部しても、一年の夏までに半分に減った。
しかし、橋川のように遠方から入寮した10人ほどの部員は粘り強かった。寮費を親に負担させているぶん、彼らの甲子園への思いは強かったのだ。
橋川は言った。
「僕らの代は、上級生を犠牲にしとるんです」
文/田中仰 写真/shutterstock

