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「水飲み厳禁の70年代にゲータレードを…」“高校野球の神様”蔦文也とは何者だったのか? 教え子が池田高校グラウンドで目撃した「猛烈な献身」

「水飲み厳禁の70年代にゲータレードを…」“高校野球の神様”蔦文也とは何者だったのか? 教え子が池田高校グラウンドで目撃した「猛烈な献身」

「攻めダルマ」と呼ばれ、高校野球の常識を次々と覆した池田高校の名将・蔦文也。水分補給が「厳禁」とされた時代に教え子にゲータレードを飲ませ、ウエートトレーニングもいち早く導入するなど、その指導は常に時代の先を行っていたという定説がある。教え子が今も忘れられない、蔦監督の「猛烈な献身」とは何だったのか。「監督、神になる 池田高校記憶の衝突」より一部を抜粋、編集してお届けする。

「グラウンドで蔦先生が水を抜いてました。スポンジを使って」

「僕らの代は、上級生を犠牲にしとるんです」

橋川の代は蔦の三年計画に該当した学年であった。粒選りの選手が揃っていた。「この代で甲子園に行きたいと蔦先生は考えたんでしょうね」

入部以降、三年生より橋川の代の選手を優先的に練習試合で起用した。他校の同学年よりも多く実戦経験を積ませるためだ。

加えて当時、四国の高校野球のレベルは全国でもトップクラスだった。高知、高知商、高松商、坂出商、鳴門工、今治西、新居浜商。出場すればほとんどように、四国四県いずれかの代表校が甲子園ベスト四に進出していた。

その四国のほぼ中央部に池田はある。バスで一時間走れば、強豪校と練習試合ができた。朝に出発して二試合しても夕方には帰ってこられた。四国を出ずして、甲子園の上位レベルを体感することができた。

橋川は蔦を「新しいものが好きだった」と言う。スピードガンもすでにあったし、アメリカ発のスポーツドリンク・ゲータレードもベンチに置かれた。夏季練習では、当時にしては珍しく一時間単位で休憩があったと橋川は記憶する。

練習中の給水が禁止されていた時代に、池田野球部員はスポーツドリンクを飲んでいた。橋川の卒業以降、池田野球部員が飲むスポーツドリンクは、大塚製薬が1980年に発売したポカリスエットに代わっていく。

練習内容は山本の時代とほとんど相違がなかった。ノックやキャッチボールより、打撃が重視された。平日の練習時間は15時から20時まで。野手は二、三箇所に分かれてフリーバッティング、つづいて実戦形式のシートバッティングが行われた。

投手は先に打撃練習してから、投げ込みに入った。コントロールがつけば、シートバッティングで味方の打者相手に投げるようになる。

チームのエース級の投手が毎日のようにシート打撃で投げ、それを野手が打った。蔦はバックネット裏に座り、スピードガンを手に様子を眺めた。

表示された球速から、投手が力を抑えたことがわかったとき、あるいは打者がまったく打てないとき、蔦から「アホ」「ボケ」と容赦ない罵声が飛んだ。

蔦から技術的な指導をされた覚えはない。その証言も山本のものと一致していた。そして橋川も山本と同じように、雨の日のグラウンドの情景を覚えていた。

「蔦さんの授業は五時間目が多かったんです。雨が午前で止んで、このままだったら放課後の練習までにグラウンドが乾いてしまう、という日がありますよね。そういうとき、もう一度水を撒けば乾かない。そうすれば練習が免除される。

やから三年生が一年生に指示して、昼休みとかに水を撒かせるわけですよ。そうすると蔦先生の五時間目は自習になる。ふと外を見たら、グラウンドで蔦先生が水を抜いてました。スポンジを使って」

橋川が続ける。

「たぶん蔦先生、気づいていたと思うんです。誰かが水を撒いたことを。それでも黙って水を抜いてました」

「蔦が講演会で金儲けに走るようなことがあると思うか」

選手に水抜きを指示するときも、蔦は投手にはやらせなかった。指の皮を守るためだ。控えのバッティング投手にさえ、水抜きをやらせることはなかった。

スポンジを手に、グラウンドで黙々と水を抜く蔦の丸い背中が、わたしの脳裏にも浮かぶようになっていた。真実味があった。

だが同時に、蔦がますますわからなくなっていくようにも思えた。それほどまでに野球に献身していた人が監督晩年になぜ、と。

〈中略〉

「ほかに何か蔦さんとの会話で覚えているものはありますか」とわたしは訊いた。

橋川は三秒ほど沈黙し、「今の時代だと問題になりそうな話なんですけど」と前置きして、一つのエピソードを教えてくれた。ある放課後の練習前、体調が悪かった橋川は、熱があるので休ませてほしいと蔦に相談した。

すると蔦は「ユニフォームを着たら治る」と言い、休むことを認めなかった。そのまま練習に参加したが、明らかに橋川の顔色が悪かったのだろう。蔦はもう帰れと言った。

橋川が笑みを浮かべる。

「寮で横になっていたら、階段を上る足音が聞こえてきた。それが蔦先生やったんですよ。布団に薬が入ったビンを投げて『これ飲んどけ』って。それだけ言って、またグラウンドに戻っていきました」

高校卒業後、橋川は蔦と同じ同志社大学へ野球推薦で進学した。四国銀行への就職も蔦
が知人を頼って実現したものだった。

高校一年の冬、橋川は父を交通事故で亡くしている。一週間、学校を休んだ。池田町に戻った橋川に、蔦は精一杯の労りを見せたのだろう。「わしを親父と思え」と言った。

橋川は、蔦から直接的な温情を受けることができた数少ない生徒だった。進学や就職の
あっせん、熱で寝込んだ橋川への不器用な気遣い。これが、蔦が持っていた〝父親像〞だったのかもしれない。

夏の記事の内容に触れるのは憚られたが、最後に橋川の見解を訊きたかった。橋川から見て、蔦が講演会で金儲けに走るようなことがあると思うか、と。橋川がかすかに苛立たしげな表情を浮かべた。

わたしは、橋川の言葉を待つ。

「僕の印象ですよ。蔦先生はお金に執着があるタイプやないです。どちらかといえばボンボンというか、もともと資産家で家も立派じゃないですか。お金に苦労しなかった人だし、ええもん食うたりするような人でもないですよ」

それに仮にね、と橋川は続けた。

文/田中仰 写真/shutterstock

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