1591年1月22日、大和国・郡山城。天下人・豊臣秀吉を長年支え続けた弟・豊臣秀長が52歳で息を引き取った。
公式の記録はただ一言、「病死」。しかしこの死が、以後の豊臣家に連鎖的な惨劇をもたらしたことを知る者は、こう囁かずにはいられない。「本当に、ただの病死だったのか?」と。
NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』(毎週日曜夜8時)が描く"仲良し兄弟の物語"は、すでに後半へと差し掛かかり始めている。だが、史実が示す終幕は、あまりにも謎に満ちていた。
「病名」は今も不明――史料が語ることと語らないこと
まず、押さえておくべき「事実」を整理しておこう。
秀長の病状が深刻化したのは1589年(天正17年)頃とされる。翌1590年の小田原征伐には出陣できず、同年9月末に東大寺の造営状況を確認した帰路で病が再発。寺社の日記『多聞院日記』の天正18年9月には「煩い、いかにもしかるべからずとみえたり(病気が、どうにもならない状態に見えた)」と記され、10月には秀吉自らが大和へ見舞いに訪れるほど深刻な状態だった。
しかし当時の医療記録や公式文書には、具体的な病名は一切記されていない。現代の研究者の間では「肝硬変」「胃がん」「結核」などの内臓系慢性疾患が推測されているが、いずれも確証はなく、「病死」という結論のみが史料に残るのみだ。
そこに「疑惑の入り込む余地」がある。
動機を持つ「3人の容疑者」——週刊誌的推理の検証
以下は、あくまで歴史上の「もしも」を巡る当サイトの検証であり、史料的証拠のない推論ではあるが、秀長の死については「毒殺」された可能性がないわけでもない。豊臣家内政の大黒柱がいなくなることで得をする人間が少なくなかったからだ。
その代表格は以下のような人物だ。
容疑者①:徳川家康
秀長の死から9年後、家康は関ヶ原で天下を奪い取ったが、秀長が生きていれば諸大名の調整役として家康の台頭を封じ込められた可能性が高い。
「秀長存命なら関ヶ原はなかった」という歴史家の指摘は多く、最も「得をした」人物という点では家康が容疑者の筆頭候補に浮かぶ。
ただし1591年時点で家康が秀長暗殺を仕掛けられるほどの豊臣内部への浸透力を持っていたかは疑問が残る。
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容疑者②:淀殿(茶々)
浅井長政とお市の方の娘である淀殿の悲願は、滅ぼされた浅井家の再興だったとする説がある。
ただ、秀吉に次ぐ実力者・秀長が存命である限り、豊臣政権に浅井家の再興を持ち込む余地はなかった。
実際、秀長の死後に淀殿の側近・大野治長は急速に出世し、豊臣政権の中枢に食い込んでいく。「秀長亡き後に得をした人物」として、淀殿周辺の動きは見逃せない。
容疑者③:反利休派の武断派大名たち
生前の秀長は「内々の儀は利休に、公儀の事は秀長に」と語り、千利休と二人三脚で政権の穏健路線を支えていた。
両者を疎ましく思っていた武断派にとって、秀長の死は「千利休孤立」という二段構えの利益をもたらした。
ちなみに、武断派とは豊臣秀吉の配下で軍務を担った武将たち。加藤清正や福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長などがその中心人物だったが、秀長死去の約5週間後、利休は切腹を命じられる。この連鎖は、果たして偶然だったのか。
