人類の進歩を否定も肯定もしない
──興味深かったのは、赤坂さんが宮﨑駿の作品から、近代以前の部族共同体が抱え持っていた反国家的な思想を読み取られていたところです。赤坂さんはフランスの人類学者ピエール・クラストルの言説を参照しながら、宮﨑のなかに「国家に抗おうとする社会への憧れ」があることを指摘されていました。確かに宮﨑映画では近代以前の部族が理想的な社会モデルとされているふしがありますね。
宮﨑駿の映画で中心的に描かれている共同体はせいぜい数百人で構成されているものが多いんです。だからそのリーダーも王ではなく、族長と言ったほうがいいでしょう。彼女・彼らは支配的な権力を振るうわけではない。持っているのは言葉だけ。そういう部族社会のあり方を宮﨑さんは理想形として考えているんじゃないかと僕は思います。
宮﨑さんは国民国家を肯定的には描きません。例えば『紅の豚』には不思議な空賊が出てきますが、あそこにあるのは、かつて網野善彦が何にも属していない空間を指して言った「無主・無縁」の世界のようなものです。調べてみると、実際に一九二〇年代後半のアドリア海にほんの短い期間、国家と国家の隙間のような状態があったらしい。それを作品に投影したのかはわかりませんが、宮﨑さんのなかにアジールに生きている人たちへの共感のようなものがあるのは確かだと思います。
──近代以降の人間が重んじた進歩史観に対する宮﨑駿の鋭いまなざしは、火の技術の描き方にも表れていますね。火は人類にとって豊かな恵みでもあるが、大量殺戮へと繫がる技術の動力源でもある。宮﨑はその両義性を映画のなかで見つめ続けてきたのだと赤坂さんは書かれていました。ここで重要なのは、宮﨑が火の力を否定も肯定もしていないことだと思います。
そうですね。例えば『もののけ姫』では遊女やハンセン病者といった差別の対象とされてきた人たちが武器を作るタタラ場が出てきましたが、あそこは火の技術の拠点のようなものです。あの場所を率いるエボシ御前は、新しい武器によって国家的な秩序を根底から突き崩そうと考えているわけですが、宮﨑さんはその野心を肯定するわけではない。あるいは漫画版の『ナウシカ』で城オジたちが「火は森を一日で灰にする。水と風は百年かけて森を育てるんじゃ」と言いますが、では宮﨑さんがその思想を自分のものとして老人たちに言わせているかというと、そうではありません。
『ハウルの動く城』ではカルシファーが火の神にして悪魔でもある存在として描かれますよね。僕はあの作品には「人類にとって火とは何か」という根源的な問いかけがあると思っています。それに対して結論はありません。宮﨑さんはいつも問いを提示しているのであり、答えを人々に伝えているのではない。それはとても大切なことだと思いますね。
──つまり、宮﨑駿の作品は一つのメッセージを持つものではない。宮﨑映画の中心にあるのは、この世界について考えるための問いなんだということですね。
僕が言いたかったのはまさにそれです。メッセージじゃないんですよ、宮﨑さんの映画にあるのは。多くの人たちはそこを誤解している。例えば『ナウシカ』を観て、エコロジーの正義を体現した作品だと受け取ってしまうように。僕はそういう解釈の仕方をしたくなかった。だから今回の本では個々の作品論を展開しませんでした。それだとメッセージやテーマを探すことになってしまうから。
宮﨑さんが映画を作るのは、問いかけたいからなんだと思います。火とは何か。大地とは何か。風とは、空とは、水とは何か。そういう根源的な問いをぶつけ合ったり、重ね合わせたりしながら映画を作っている。それらの問いを『君たちはどう生きるか』までが揃った現在の鳥瞰的な視点で見つめると、さっきおっしゃったような一つの壮大なタペストリーが見えてくるんです。
宮﨑駿がいることは奇跡的なできごと
──「空の章」では、「宮﨑駿がつねに極限において問いかけていたのは、技術と権力の隠微にして不条理な関係であった」と書かれていました。宮﨑は人類が犯した過去の過ちを現在の正義から断罪したり反省したりするために映画を作っているわけではない。赤坂さんはそう考えるからこそ、実家がゼロ戦を作っていた宮﨑駿の戦争経験のような、個人的な原体験を探る方に筆を向けないわけですね。
火は悪であると言ったら人間は人間じゃなくなるんですよね。漫画版『ナウシカ』には森の人が出てきます。彼らは火を捨てた人たちです。火を使った武器を持たず、火を使って料理することもしない。ナウシカはそんな彼らに仲間にならないかと誘われますが、拒む。つまり、火を捨てた人類のあり方を認めるわけではない。
宮﨑さんは一つの答えに収斂(しゅうれん)させるような物語の組み立て方は絶対にしません。自然を愛するからと言って、そういう自分の思考に合った映画を作り、観客から共感を得ようとはしない。だからこそ、一つの作品のある断片だけを切り取って、宮﨑駿はエコロジーの思想を唱えていると決めつけるような読み解き方では、彼の映画の豊かさは捕まえきれないと思います。
──宮﨑駿の想像力は社会的な正しさを訴えるためだけに発揮されるのではなく、もっと広く、深い文学的な射程を持っているのだ、と。
そもそもSF的な想像力とは、これまで人類が培ってきた経験の延長線上にある風景を見るためのものではないんですよね。経験の積み重ねでは届かない世界を考えるための問いを摑む。それを可能にするイマジネーションなんです。僕たちの世界は今、そのように考える射程を切実に必要としている。宮﨑駿はずっとそれを見せてくれていたんだと思います。
あれだけのたぐいまれな批評的なまなざしを持った言葉の人がアニメーションを作っていたことは、奇跡のようなできごとだったかもしれません。はたして同じような奇跡がこれからの日本で起こりうるかはわからない。しかし、宮﨑駿がいて、ジブリが一つの時代を作ったことは間違いないわけだから、その意味をちゃんと考えなければならないんじゃないかなと僕は思っています。

