8月15日、新日本プロレスの天山広吉が両国国技館大会で引退試合を行う。最後の花道を前に、本誌連載『黒の履歴書』でお馴染みの蝶野正洋とのスペシャル対談が実現した。狼群団時代から師弟として絆を深め、やがて「蝶天タッグ」として一時代を築いた2人。出会いからタッグ結成秘話、リング内外の爆笑エピソード、そして引退を前にした現在の心境まで、とことん語り尽くす!
橋本真也&ライガーの猛特訓! 天山が耐え抜いた新弟子時代
蝶野 天山が新日本プロレスに入門したのは1990年で、俺の6年ほど後輩になる。俺はその頃、新弟子に目をかけないようにしていて、入門当時の天山は覚えていないんだよ。すぐ辞めちゃうヤツが多かったから、付き合いを深くして情が湧くのがイヤで、あえて距離感を保ってたんだよね。
天山 そんな、捨て猫じゃないんですから(笑)。自分が新弟子の頃、蝶野さんはたまに道場にいらっしゃって、気さくな感じで声を掛けてくれてましたね。
蝶野 闘魂三銃士の中で、しっかり新弟子をチェックしていたのは橋本(真也)選手。「道場に住んでるのかな?」っていうぐらい毎日いて、よく新弟子を連れ回して遊んでたよね。
天山 橋本さんは毎日のように道場に来てました。自分も橋本さんや、(獣神サンダー・)ライガーさんにかわいがってもらいましたね。
蝶野 この橋本選手とライガー選手というのは、歴代の道場の中でも異常だった。練習もキツいし、ヒドいイタズラもしてくるし…。俺はこの2人が先輩だったら、すぐに辞めてたね(笑)。だからあの環境で残った天山、小島(聡)、永田(裕志)、中西(学)あたりの“第三世代”は、根性があると思う。
天山 自分は入門したばっかりのときに、一度、逃げてるんですよ。山本小鉄さんに相談して再入門させてもらったので、二度とケツを割れない。“何がなんでも辞めない”と覚悟を決めたので、乗り越えられたのかもしれないですね。
蝶野 橋本選手たちにかわいがられたせいか、天山はどんどん痩せていった。入門時は100㌔ほどあったけど、90㌔ぐらいまで落ちてたから。
天山 だからデビュー3年目でヨーロッパ遠征に行かせてもらったときは、いろいろなことから解放されてうれしかったですね。遠征地も蝶野さんら先輩が開拓してくれたエリアだったのも良かったです。
蝶野 80年代後半、俺がグラーツ(オーストリア)に拠点があったCWAという団体に参戦したんだよ。俺の次が船木(誠勝)選手、その翌年に俺がまた戻って、他にも橋本選手、野上彰選手、小原道由選手とかも行ってたね。
天山 先輩方が行かれた同じルートで、ブレーメン(ドイツ)やウィーン(オーストリア)で武者修行できたのはありがたかったですね。
蝶野 その後、カルガリー(カナダ)の大剛鉄之助さんのところに行ったんだよね。あれが天山の転機になったと思うよ。
天山 大剛さんには本当にお世話になりました。大剛さんの教えを守ってトレーニングしたら体も大きくなったし、プロレス技もいろいろ指導してもらったので、あれが自分のスタイルの原点ですね。
蝶野 大剛さんは相撲出身で、国際プロレスとかで活躍していたレスラーだから、鍛え方が昭和的で、ジムのマシーンとかじゃない昔ながらのトレーニング器具を使ったりする。でも、天山はそういう練習でも真面目にやるんだよな。遠征するときも、ゼロハリバートン製のデカいアタッシュケースに木製のプッシュアップバーを入れて、どこでも筋トレしてたよね。
天山 あのアタッシュケースは底に車輪もなく重いんですけど、それを自分の手で持ち歩くのもトレーニングだと思ってました。
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蝶野が語る若き天山「リングの外ではかなりトンパチだった」
──天山さんは1995年に凱旋帰国すると、蝶野さん、ヒロ斎藤さんらの「狼群団」に加わりました。
天山 自分にとって海外遠征というのは確かに転機でしたけど、そこからもう一つ頑張れたのは、やっぱり蝶野さんと組ませてもらったから。あのとき、狼群団に入れてもらったおかげで、ここまでやってこられたと思ってます。
蝶野 でも、帰国直後は平成維震軍に誘われたんだよね。なんで断ったの?
天山 平成維震軍は自分が海外に行ってる間にできたユニットで、何も事情を知らなかったんですよ。それが日本に帰ってきたら維震軍の方々が空港まで迎えに来て、そのまま車に乗せられて…。肉体改造して、新たなイメージでやっていこうと思ってましたが、平成維震軍はちょっと違うな、と。それに苦手な先輩もいましたから。
蝶野 あぁ、あの人ね(笑)。
天山 蝶野さんが手を差し伸べてくれたのが大きかったし、結果的に一番いい選択だったと思います。
蝶野 本隊という選択肢もあったんだけど、それはそれで橋本選手やライガーに潰されそうだからね。あそこは目立つヤツがいると、すぐに足の引っ張り合いが始まるから。
天山 狼群団はそういうところがまったくなく、居心地が良かったですね。試合後、蝶野さん、ヒロ斎藤さんに悪かったところを教えていただき、毎日勉強させてもらって。自分は何もできなかったので、頑張っていかなきゃいけない気持ちになりましたし、チームとして盛り上げていくことも学びました。まぁ、それなりにキツいこともありましたけど。
蝶野 そうやって最後に本音を言っちゃうのが天山なんだよな(笑)。
──蝶野さんは当時、レスラーとしての天山さんをどのように見てましたか?
蝶野 天山は海外にいた頃から、リングとお客さんが見えているというか、肌感覚で空気を読んで、自分がどういう動きをすべきか分かってたし、ちゃんとプロレス頭を持っていた。自分も含めて、一歩引いて見られるレスラーだったね。中西とかは、そういう感覚が無かったから(笑)。
天山 それはやっぱり、自分が元々プロレスファンだったからじゃないですかね。同期の中でも、永田さんやニシオくん(中西学の愛称)は、レスリングをずっとやってきたスポーツエリートですから、プロレスに触れてきた時間が違うというか。
蝶野 まぁ、第三世代の中で一番バランスが良かった天山だけど、リングの外ではかなりトンパチだったね。
天山 単なる馬鹿なんですよ(笑)。世間知らずで、右も左も分かんない状態で、言われたことをやるだけでしたから。
蝶野 そんな話はいっぱいあるよね。車の運転時に雨が降ってきて、ワイパーが動かなかったから窓を開けて身体を乗り出し、自分の腕でフロントガラスを拭きながら運転を続けたとか、ちゃんこ鍋を食べてたとき、先輩から「レンゲ取ってきてくれ」と言われて、なぜかレンゲ草を探しにいって、冷蔵庫でそれっぽい野菜を見つけて持っていったとかね。それに、ここじゃ言えないような下ネタもたくさんあるよ。
天山 勘弁してくださいよ(笑)。蝶野さんにはプロレスだけじゃなく、人としての常識も教えてもらいました。それこそ基本的な挨拶から立ち振る舞いまで。その上で遊びもいろいろ教わった感じですね。自分が好きなパチンコを覚えたのも、蝶野さんと武藤(敬司)さんに連れて行ってもらったのがきっかけなんですよ。札幌の興行だったと思うんですけど、2人から小遣い1万円ずつもらってやってみたら大当たりして、それからすっかりハマってしまって…。
蝶野 あの頃は新日本プロレス全体でパチンコが流行ってたんだよ。「大工の源さん」が人気で、坂口(征二)さんや長州(力)さんもやってたんじゃないかな。
天山 それから自分のパチンコ好きが広まって、パチンコ関係のお仕事もいただきましたから。ハマり過ぎてカミさんに怒られたりもしましたけど(笑)。
