
求人サイトを開くと、決まり文句のように同じ一行に出会う。
「未経験歓迎。誰にでもできる簡単なお仕事です」。
同時に時給の欄には最低賃金が表示されている。
この文面は二つのことを同時に言っている。
あなたを歓迎する、ということ。そして、あなたでなくてもよい、ということ。
歓迎と交換可能性が同居するこの一行から、最低賃金で働くとはどういうことか、そして最低賃金で働かされるとはどういうことかを読み解いていく。
目次
- 「誰にでもできる仕事」は、どこにもない
- 呼び名は変わった。給料は変わらなかった
- 一時間の内側で働いているもの
- 選んだ仕事、辞めれない仕事
「誰にでもできる仕事」は、どこにもない

コンビニのレジに立つ人の仕事を考えたことはあるだろうか?
会計、公共料金の収納代行、宅配便の受付、各種チケットの販売、揚げ物の調理と廃棄時刻の管理、検品、品出し、発注の補助、店内清掃、トラブルの一次対応。
切り替えながら、立ったまま何時間も続ける。
介護でも、清掃でも、飲食でも、最低賃金近傍の仕事を分解すれば、同じように長い目録ができあがる。
米国の作家バーバラ・エーレンライクは、身分を伏せてウェイトレスや清掃員、大型スーパーの店員として働き、その記録を『ニッケル・アンド・ダイムド』(2001年)にまとめた。
博士号を持つ彼女が発見したのは、「未熟練」と呼ばれる仕事のどれひとつとして未熟練ではなかった、という事実である。
どの職場にも覚えるべき手順と身体で習得するしかない技能があり、それを身につけるまでは何十回もしくじった、いちばん失ったのは自分の有能さだった、と彼女は書いている。
売る側も、実はそれを知っている。
ある大手コンビニチェーンの採用ページには「すぐに覚えられますよ」とある。
同じページを少し下へたどると、こう続く。
「レジ業務は少し複雑ですが、焦らず一つひとつ覚えていきましょう」。
この採用ページには「簡単であること」「難しいこと」が平然と同居している。
人によってそれは必ずしも「難しい」ものではないかもしれない。
ただわざわざ「焦らず一つひとつ」と但し書きがつくほどの「何か」が採用後に待っていることを告げているのである。
採用の場面では、それがもっとはっきり浮かび上がる。
「誰にでもできる」と書かれたはずの求人に応募して、落ちる人がいるのだ。
面接で数人を比べ、一人を選び、残りを断る。
ときには「まともな奴が来なかった」と、採用ゼロのまま募集をかけ直す。
社会に出ていれば見慣れた風景で、文句を言う人もいない。
店長や人事の側に立てば、誰だって同じことを言うはずだ。
だが、立ち止まってみればおかしな話である。
誰にでもできるのなら、落ちる人はいないはずだ。
落とすということは、選んでいる。
選んでいるということは、できる人とできない人を分ける何かを、雇う側自身が見ているということである。
つまり「誰にでもできる」は、仕事の性質の記述ではない。
安いから簡単なのではない。
簡単だということにしなければ、この安さを正当化しにくいのだ。
そのとき混ぜられているのは、似て非なる二つのことである。
未経験から学べる仕事であることと、学ぶものが何もない仕事であること。
前者は入口の話であり、後者は中身の話だ。
この二つが混ざったとき、「未経験から働ける」は「誰でも代われる」に変わる。
呼び名は変わった。給料は変わらなかった

この「安値を正当化する言葉」という見立てを、思いがけない形で試した出来事がある。
2020年、感染症が街を止めたとき、それでも止められない仕事が残った。
スーパーのレジ、配送、清掃、介護、ごみの収集。
社会はそれらを「エッセンシャルワーカー」——欠くことのできない働き手——と呼び直し、世界の各地で拍手が送られた。
「誰にでもできる簡単なお仕事」は、一夜にして「社会に不可欠な仕事」になった。
仕事の中身は何ひとつ変わっていない。
変わったのは呼び名だけである。
では、値段はどうなったのか?
国際労働機関(ILO)が2023年にまとめた報告書によれば、こうした基幹的な働き手の賃金は他の労働者より平均26%低く、その差のうち学歴や経験の違いで説明できるのは3分の2までだという。
呼び名がこれほど動いても、値札はほとんど動かなかった。
「簡単だから安い」という説明が、ここでも揺らぎはじめる。
説明のつかない残りに、もう一歩踏み込んだ研究がある。米国の社会学者イングランドらは、同じ人たちの賃金を若いころから長期間追いかけた(Social Problems誌、2002年)。
すると、同じ人が、同じ学歴と経験のまま、保育や看護、介護のように人を世話する仕事へ移っただけで、賃金は下がっていた。技能が減ったわけでも、怠けたわけでもない。
仕事の種類そのものに、割引が貼りついていたのである。
では、その割引はなぜ起きたのか?
その理由の1つがどれだけ「代わりがいるか」と見なされているか、である。
しかし多くの人はその「代わりがいる感」を、フィーリングで決めていないだろうか?

