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「公務と酒? 酒に決まってるだろッ」立川談志が政務次官を36日で辞任した“破天荒すぎる政治家人生”【怪人/快人伝 第4回】

「公務と酒? 酒に決まってるだろッ」立川談志が政務次官を36日で辞任した“破天荒すぎる政治家人生”【怪人/快人伝 第4回】

立川談志 (C)週刊実話WEB

永田町取材歴50年超の政治評論家・小林吉弥氏が実際に会った傑物たちの知られざる素顔を初公開。今回は立川談志(上)をお届けする。

石原慎太郎の進言も拒んだ談志流の「反骨」

「あなたは公務と酒、どちらが大切なのか」

いささか二日酔い気味の立川談志(本名・松岡克由)参院議員は、沖縄開発庁政務次官に就任直後の記者会見で質問を受けた際、躊躇することなく答えた。

「酒に決まってるだろッ」

普通の政治家ならやんわり答えて切り抜けるところだが、談志は世の反応を半ば楽しむかのように、言うなら挑発的な答えを返したのである。

しかし、永田町はこんな“答弁”が通るほど甘くなかった。所属の自民党大平(正芳)派幹部で参院議員として3年先輩の石原慎太郎からも、ここは「謝罪」で決着をはかるべしとの進言を受けたが、談志に“聞く耳”はなく、結局、政務次官辞任、自民党も離党して無所属に転じている。

無所属になって1年、談志はそれでも次の参院選での「再選」を目指したが、周囲の説得でついに「二足のワラジ」を断念。その後は「落語立川流」を立ち上げるなど、落語界の改革に切り込むことになる。

「国会議員の経験が恥になるのは、オレぐらいだろうな」

のちに、談志は言いも言ったり、なんともの傲慢さを誇示している。

じつは、談志が初めて国会議員を目指したのは昭和44(1969)年12月の衆院選で、中選挙区制時代の〈東京8区〉から無所属で出馬したものの、候補9人中6位で落選している。

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昭和46年6月、参院選当選決定で、漫才師の内海桂子(右)からお祝いのキスを受ける立川談志。内海好江、三遊亭円楽(五代目)の顔も見える

売れっ子落語家が政治家を目指したワケ

時に、談志の落語家としての人気は急上昇中で、高座はもとより破天荒にして鋭い感性は、テレビでも売れっ子ぶりを発揮していた。

当時、談志は30歳。昭和41年5月にスタートした日本テレビ系『笑点』の初代司会者を都合3年務めたが、日曜日夕方の茶の間へ向けた放送にもかかわらず毒舌が勝ったことで、テレビ局側と談志との間で方向性に齟齬が生じ、結局、談志は衆院選出馬を理由に番組を降板している。

談志とメンバーの一問一答は軽いジョークではなく、例えばビートたけしの「赤信号みんなで渡れば怖くない」といったギャグ以上のブラック・ユーモアが連発され、局側からすれば内容がいかにも“重い”との判断だったようだ。
 
談志が落語家と国会議員の「二足のワラジ」をはく気になったのは、自らの過信の一方で、いわゆる世の中の「常識」に対する挑戦があったものと思われた。
 
衆院選の落選から2年後の昭和46年6月、談志は参院選の全国区に再び無所属で出馬。前述した石原慎太郎の全面的な支援を受け、ギリギリの50番目で当選にすべり込んだのである。落語家仲間の三遊亭円楽などから、「一番最後に登場するとはさすがに真打だ」と、はやし立てられたとの報道もあった。
 
その後、時の佐藤栄作首相から強く自民党入りをすすめられ、結局、当時の大平派に入った。そのうえでの政務次官就任と、36日という短期間での辞任劇だったのである。国会議員生活は1期6年で幕を閉じた。
 
私がある週刊誌の依頼を受け、立川談志の「今」を取材するためインタビューを申し込んだのは、議員辞職から2年が経った昭和52年の春だったと記憶している。その前年12月に三木武夫内閣が退陣、福田赳夫内閣が発足し、それから3〜4カ月が経った頃だったのでよく覚えている。


配信元: 週刊実話WEB

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