今年7月に亡くなった板東英二さん。1958年夏の甲子園で大会記録となる83奪三振をマークし、“戦後の怪物”と呼ばれた高校球界のスーパースターだった。巨人をはじめプロ球団が争奪戦を繰り広げたが、本人が望んでいたのはプロ入りではなく、大学へ進学して「学校の先生になる」こと。ところが、その人生を大きく変えたのが、中日が提示した契約金2000万円だった。当時の初任給が1万3000円ほどだった時代、アタッシュケースに詰められた大金を目にした父親は、その場で判を押したという。そして、その2000万円も思わぬ形で消えることに――。板東さんが生前に明かしていた、中日入団とその後の人生を左右した“カネ”をめぐる秘話とは。(前後編の前編)
最初に手を上げたのは巨人だった
「僕はずっと教師になりたかったんです。慶應はお坊ちゃん、早稲田には貧しい人が行くというイメージがあって、僕は早稲田に行きたかったんです」
1958年夏の甲子園で、徳島商業のエースとして大会83奪三振の大会記録を樹立した板東英二(2018年夏からタイブレーク制が導入されたため、この記録は今後、破られることはない不滅の記録と言われている)。
準々決勝の魚津高校戦では延長18回を投げ抜き、25奪三振。0対0のまま引き分け再試合となった一戦は、高校野球史に残る伝説となっている。
そもそも延長18回で引き分け再試合というルールが作られる契機のひとつとなったのも、板東の投球だった。
同年の春季四国大会で、徳島商業のエースだった板東は準決勝の高知商業戦で延長16回を完投。その翌日の決勝、高松商業戦でも延長25回をひとりで投げ抜いた。2日間で計41イニング。そんな鉄腕ぶりから、板東は“戦後の怪物”と呼ばれた。
当然、卒業後の進路にも大きな注目が集まった。
甲子園で超人的な活躍をしたことで“超高校級”と騒がれ、マスコミは板東の進路を巡ってプロか進学かと報道合戦を繰り広げた。
だが、本人の希望は最初から大学進学だった。
「僕はとにかく、学校の先生になりたかったから大学に行くつもりだった」
第一志望は早稲田だったという。
一方、高校3年の夏前には、関係者の伝手で慶應野球部の稲葉誠治監督が徳島商業へ指導に訪れている。そこで板東を見た稲葉監督は「いい投手がいるなぁ」と目をつけた。
甲子園後には板東自身が上京し、慶應大学で入学を前提とした模擬テストを受けている。慶應進学は規定路線となっていた。
しかし、“戦後の怪物”をプロ野球球団が放っておくはずがなかった。
当時はドラフト制度がなく、選手獲得は自由競争。スピード、球のキレ、スタミナと三拍子そろった超高校級投手を獲得しようと、各球団が板東のもとへ押し寄せた。
最初に来たのは巨人だったという。
「僕が、プロ入り表明するわけがない。僕はとにかく、学校の先生になりたかったから大学に行くつもりだった。
最初に巨人が来たんだけど、すぐに断ったため、それから報知新聞が、板東は金を釣り上げるためにプロとの交渉を渋っているといったネガティブキャンペーンを展開されたけど、国体に出るのでプロとの交渉はできないじゃないですか。まあ、いろいろ書かれました」
「板東は金に走るって言われたけど、そりゃ走るっちゅうねん」
本人はプロ入りを望んでいない。それでも周囲では、プロ入りを前提とするかのように話が進んでいった。
板東によれば、中日入団決定時の新聞には「英二の意思尊重 父親操氏の話」と書かれていたという。しかし、本人の記憶はまったく違う。
「こんなのウソばっかですよ。親父が金に走ったんですよ」
板東の父・操の心を動かしたのは、目の前に現れた途方もない大金だった。
「中日の柴田スカウトが岩本球団代表と銀行員2人を家に連れてきて、アタッシュケースに入った2千万の現ナマを見せて『これだけの契約金を用意しております』と言った途端、今まで渋っていた親父が判子押したからねぇ、もう情けなかったわ。初任給が1万3千円だったときですからね」
契約金2000万円。初任給が1万3000円だった時代である。もちろん、中日だけが板東獲得に動いていたわけではない。
「阪神も来たけど、阪神百貨店のセーターを持ってきましたわ、そんなのあかんわね。南海も来て、徳島汽船の無船乗船券を持ってきたけど、そんなのはどうってことない」
そして、テレビでおなじみだった“板東節”でこう続けた。
「板東は金に走るって言われたけど、そりゃ走るっちゅうねん」
リップサービスも相まって笑いを誘う。しかし、本心では大学進学を親にひっくり返され、忸怩たる思いもあったのかもしれない。
それでも板東は抗うことなく、中日入団を決めた。そして1959年、甲子園のスーパースターはプロ野球選手となった。
1年目から二桁勝利を期待されたものの、開幕から83日目、三度目の先発となった国鉄戦で6回2失点に抑え、ようやくプロ初勝利。ルーキーイヤーは4勝4敗に終わった。
2年目には先発ローテーションに入り10勝11敗。3年目には21歳で開幕投手を務めた。この年も12勝10敗を挙げ、中日のスターへの階段を上っていった。
ところが、その裏側では、あの2000万円の契約金を巡って思わぬ事態が起きていた。

