藤圭子がデビューしたのは、若者たちの反抗の季節が終わりを迎えつつあった1969年のこと。時代の閉塞感を声に宿らせた彼女は、なぜ瞬く間にスターへと駆け上がりながらも、27歳で引退を決意するに至ったのか。そして、その精神はどのように娘・宇多田ヒカルへと受け継がれたのだろうか。
命日である今日、その早すぎる死を偲びたい。
若者たちによる反抗の季節の終わり
藤圭子がデビューした1969年、日本の音楽シーンには明らかな傾向があった。
カルメン・マキの「時には母のない子のように」を筆頭に、ちあきなおみの「雨に濡れた慕情」、加藤登紀子の「ひとり寝の子守唄」、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」など、若い女性シンガーが歌う暗い曲調の歌がヒットしていたのだ。それらの歌の主人公に共通するのは、“行き場のない孤独と切なさ”だった。
その到達点とも言えるのが、藤圭子のデビュー曲「新宿の女」である。ありふれた夜の女の呟く自嘲的な歌詞、俗っぽい5音階のメロディーは、当時にしてもかなり時代遅れで古めかしい歌だった。
ところが、1969年から1970年にかけてこの歌を支持したのは、明らかにロック世代の若者たちが多かったのである。それはハスキーな歌声が異様なほどに生々しく、そこから伝わってくる孤独と切なさには、不思議なまでにリアリティがあったからだ。
その年の1月、全共闘の学生たちによるバリケード封鎖で、半年以上も占拠されていた東京大学の安田講堂が陥落した。第2次世界大戦が終わって四半世紀が経っても、まだ東西冷戦は続いていたし、地域間や民族間の紛争は絶えることがなかった。
ビートルズが登場した60年代前半から世界中に広がっていた、若者たちによる反抗の季節は終わりを迎えつつあった。それまでの価値観を壊そうとした文化運動もまた、新たな地平を見い出せないまま、変革のエネルギーを失って彷徨するしかなかった。
漠とした未来への希望が、儚い幻想だったことに気づいた若者たちの間で、無力感や閉塞感が共有されたのは当然の流れだった。
さほど良い楽曲とは思えない「新宿の女」を歌っていたにも関わらず、藤圭子というシンガーが発見されたのは、時代の空気感をそのまま彼女が鏡のように反映していたからだろう。
一世を風靡するスターに
そのハスキーで切ない叫びを際立たせるのが、細やかながらも力強く震えるヴァイブレーションだ。藤圭子が歌うと声の震えは風になり、聴く者の心の壁にそっと吹いてきた。
それを可能にしたのが天性のリズム感で、そこにはロック世代が意識していたビートがあった。歌謡曲や演歌的なものを敬遠して、ロックやジャズに親しんでいた若者たちの間で、藤圭子が熱烈に支持されるようになった理由はそこにある。
古色蒼然とした歌詞であっても、彼女の歌のグルーヴはロックだったのだ。
“行き場のない孤独と切なさ”を抱えた若い男性だけでなく、いつしか女性たちにまでそうした思いが共有されたことで、歌声に振り向いてくれる人が増えていった。そうした人たちの間で密かに好評だったのが、デビューシングルのB面に入っていた「生命ぎりぎり」だった。
いかにも自嘲的な歌詞と演歌的なメロディーは、A面の「新宿の女」とまったく同じ構造。だが、どこかで突き放したように自分を見ているクールな視点、生への抑えきれない切実な思いには、たかが歌謡曲という括りを超えたリアリティが感じられた。
「飾った愛などいるものか」というフレーズには、パターン化された主人公の向こうから、瞬間的に生身の藤圭子が浮かんで来る。ハスキーな声で絞り出すように歌った瞬間に放たれるリアリティは、間もなくレコーディングされる代表作「圭子の夢は夜ひらく」にもつながっていく。
1970年3月に、ファースト・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』の1曲として発表された「圭子の夢は夜ひらく」は、ファンの間で圧倒的な支持を得て、有線放送などでリクエストが急増。
世間に発見されて、当時は異例だったアルバムからのシングルカットという形で10週連続No. 1という大ヒットを記録。アルバムもまた3月末から8月初めまで20週間にわたって1位をキープするベストセラーとなり、藤圭子は一世を風靡するスター歌手になった。
しかし、小さな個人プロダクションに所属していた事情で、芸能界という特別なムラ社会で酷使され続けたことによって、藤圭子はデビューから1年もしないうちに輝きを失い始めていく。
その分岐点となったのは、人気が絶頂となっていた1970年の夏にリリースした4枚目のシングル「命預けます」という歌だった。
周囲の関係者たちの「ヒット曲を生み出そう」という情熱が、いささか過剰だったのかもしれない。あるいは3曲連続のヒットチャート1位を狙っていた制作者たちの野心が、あまりに藤圭子ブームを意識しすぎたのかもしれない。
ピュアな精神、実像と虚像の狭間にあって、一途に歌うという祈りとしてのブルーズが、「命預けます」という楽曲からは感じられなかったのだ。そしていつからか“歌う力”も失われてしまった。致命的だったのは、1974年ごろに受けたポリープの手術だった。
藤圭子は、どうしてそうなったのかについて、引退を発表した後に行われたインタビューで、作家の沢木耕太郎にこんな思いを打ち明けていた。
「確かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、残念なことに、私は前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ」
“あの人”とは、手術前の藤圭子のことだ。ポリープを切り取ったことで、歌手としての生命まで切り取られることになったというのである。藤圭子は、そのことについての経緯と喪失感を包み隠さずに語っていた。

