「レジェンド親分」鶴岡一人監督
私が南海ホークスへと移籍したときは、すでに野村克也捕手兼任監督の時代だった。球団を去った鶴岡一人さんはチームから距離を取っていたが、それでも球団にいる誰もが鶴岡さんを「親分」と呼び、慕っていた。
この親分という呼び名は、「オヤジ」をさらにグレードアップさせたもの。野球よりも任侠の世界でおなじみだ。鶴岡さんがいかに尊敬を集めて、チームの皆が忠誠を誓っていたかがわかる。
一方、当時の野村監督は、のちに夫人となる野村沙知代さんに魂を持っていかれて、公私混同事件の真っただ中。その対比の中で、鶴岡さんを慕う心がより強まっていたのかもしれない。
南海OBの大沢啓二さんが、その後ロッテや日本ハムで監督を務めると、「親分」と呼ばれるようになった。
しかし、南海ОBや関係者には「親分は鶴岡さんだけ。ふたりはいらん」と言う人も多かった。鶴岡さんは、それだけ徹底して「子分」の面倒を見た人で、いつまでも「子分」から慕われていたのだ。
長嶋茂雄を叱りつけた川上哲治監督
怖いもの。地震、雷、火事、親父――。昔からオヤジは怖いものと決まっていた。オヤジ監督たちも内面は熱く、温かいのだが、怖い一面を隠そうとしなかった。といっても、のべつ怒りまくっていたというより、「怒らせると怖い」であった。
細かい守備フォーメーションやピックオフプレー、そして小技を使った攻撃などを駆使するドジャース戦法に学び、巨人を9年連続の日本一、いわゆるV9に導いたことで有名な川上哲治さんも「怒ると怖い人」だったと聞いた。
実はV9ジャイアンツの戦術面、技術面、チームマネジメントを支えていたのは、ドジャース戦法を徹底的に学んだ牧野茂ヘッドコーチであり、名選手だった川上さんはどちらかというと精神的支柱だった。オヤジとオフクロの役割分担といったところか。
川上さんが長嶋茂雄さんを叱りつけたという話が伝わっている。
当時、春先のベンチでは火鉢に火をおこす光景がよく見られた。巨人のベンチでは、いつも川上さんが火箸を持って炭の番をしながら暖を取っていた。
川上さんは口数も少なく、あまり感情を表情に出さないタイプだったが、ものごとが順調に進んでいるときは貧乏ゆすりをするクセがあった。それを見ると、選手たちも「監督、機嫌がいいな」と思ったそうだ。
逆に不機嫌が頂天に達すると、持っていた火箸であたりを叩き、「パチーン」と大きな音を鳴らす。その音を聞くと選手たちは震え上がった。
ある試合で三振を喫した長嶋さんがベンチに戻るなり、「いやあ、あれは打てない」と言った。すると火箸のパチーンが響き渡り、「4番のお前が打てなくて、誰が打つんだ!」と一喝、ベンチは凍り付いた。
長嶋さんは次の打席でホームランを打ったという。

