いったい、実の父親と母親は誰なのだろうか。そんな謎めいた女性がいる。江戸幕府を開いた徳川家康の女好きは有名だ。それだけに2代将軍・秀忠を筆頭に直系の人物は多々いるが、公には認知されていない庶子、ご落胤の類も何人か存在している。江戸幕府の大老、老中を務めた土井利勝はその代表だが、実は女性もいた。その名をしゃむ姫(シャン姫)という。
しゃむとは当時のタイのことだが、家康とタイ人女性の間に生まれたというわけではなく、その名の由来は伝わっていない。
文禄2年(1593年)生まれのしゃむ姫だが、母親は謎だ。家康の生母であ
る於大の方の姉という説もあるが、仮にそうだとすれば50代か60代。いくら熟女好きの家康でも、手を出したとは思えない。いや、仮にそうだとしても50代、60代では現代でも相当な高齢出産になるため、事実とは考えにくい。特定されたくない事情があったに違いないのだ。
しゃむ姫の嫁ぎ先は、のちの下野国黒羽藩2代藩主・大関政増だ。大関氏の家譜には「水野出羽守重仲の養女」と書かれており、実の父親の名前は明らかにされていない。だが、重仲は生母・於大の方の甥で、家康とは従兄弟同士。父親として名前を出されたくない家康が従兄弟に頼み、養父になってもらった可能性は高い。
嫁入りの際には、家康から葵の紋が入った短刀や葵の紋付きの屏風が、2代将軍の秀忠からは葵の紋が入った茶碗などがプレゼントされている。親戚とはいえあまりの厚遇ぶりで、家康の溺愛が分かろうというもの。これがしゃむ姫ご落胤説の根拠になっている。
嫁いだ後のしゃむ姫は2男2女を設けた。初産の際には家康が安産祈願をし、葵の紋が入った産着を贈るなど特別扱いが続いたが、元和2年(1616年)に夫・政増がわずか26歳で死去した。
しゃむ姫は寛文2年(1662年)に70歳で世を去ったが、その亡骸は夫と同じ黒羽の大雄院に葬られた。この寺には今も、葵の紋が入った茶碗などが所蔵されているという。
現代ならDNA鑑定で実の父と母は特定されただろうが、江戸時代では当然、無理な話だ。実は松尾芭蕉が書いた「奥の細道」の中に、黒羽藩の家老・浄法寺桃雪、鹿子畑翠桃兄弟に世話になった、とのくだりがあるが、その実母がしゃむ姫の娘だっという説がある。しゃむ姫の家系は時折、歴史上に顔を覗かせ、謎を残す。
(道嶋慶)

