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海外F1記者の視点|2025年マクラーレン同士の”和やかな”タイトル争いは面白くない? F1への興味を失墜する危機に繋がるかも

海外F1記者の視点|2025年マクラーレン同士の”和やかな”タイトル争いは面白くない? F1への興味を失墜する危機に繋がるかも

2025年のF1ドライバーチャンピオン争いは、マクラーレンのチームメイト同士……オスカー・ピアストリとランド・ノリスの一騎打ちになっている。

 チームメイト同士の一騎打ちといえば、白熱しそうなものだ。F1の歴史を振り返ると、ルイス・ハミルトンvsニコ・ロズベルグ、セバスチャン・ベッテルvsマーク・ウェーバー、ハミルトンvsフェルナンド・アロンソ、アイルトン・セナvsアラン・プロスト、ナイジェル・マンセルvsネルソン・ピケ……数々の大激戦となったチームメイト対決が思い起こされる。彼らはいずれも、コース上で衝突したり、罵り合ったりと、ファンからの興味を惹きつけた。

 しかし今年のピアストリとノリスの対決は、これまでのところ実に平穏。マクラーレンはふたりのドライバーに、自由に戦うことは認めつつも可能な限り公平なモノとすることに腐心しており、ピアストリとノリスもその理念を理解し、忠実に守っている。

 このことにとって、今年のF1のタイトル争いは、つまらないモノになってしまっているのではないか? そんな意見も散見される。これについて、motorsport.com各国のライターが、見解を語る。

■表面的には面白さを削いだが、この状況の希少性が魅力を増加させている:フィリップ・クリーレン

 額面通りに考えれば、面白くなくなっているのではないかという問いに対する答えは「イエス」である。

 今のところ、ノリスとピアストリの”チーム第一主義”の姿勢は、今季のタイトル争いに水を差している。せっかく、2021年以来初めてとなる本格的なタイトル争いが繰り広げられているのに……。

 マクラーレンの執拗なまでの公平性へのこだわりは、激しいタイトル争いを見たいと熱望するファンや、ひとつのチームが支配するシーズンに刺激が与えられることを期待するファンを苛立たせている。イタリアGPでの強引なポジション入れ替えに対して、否定的な意見が多数投げかけられているのが、その好例であろう。

 ただ私は、彼らが失敗するのを望んでいるわけではないと前置きしつつ、興味深いストーリー展開となるのは大好きである。今後ふたりの争いがどう展開していくのか、そしてその調和が崩れるのはいるになるのか……本当に崩れてしまうことがあるのかな、などとつい考えてしまう。

 とはいえ、この状況は非常に稀であると言える。そのため、実に興味深い。タイトル争いが、こんなふうに平穏なまま済むはずがないと感じているのだ。

 我々はセナとプロスト、ベッテルとウェーバー、ハミルトンとロズベルグ……そういう組み合わせに慣れている。ノリスとピアストリが、タイトル獲得という稀に見るチャンスにどう挑むのか、そしてザク・ブラウンCEOとアンドレア・ステラ代表が、この状況をいかにコントロールしているのか……それはここ数十年を見ても、あまり前例のないことだろう。

 モンツァの後にピアストリが語った言葉は、印象的であった。彼は今後もノリスと共に長年にわたってチームにチャンピオンをもたらし続けるつもりであり、だからこそこのチャンスを与えてくれたチームメンバーを守る責任を感じていることを、雄弁に語ったのだ。

「こういう時、自分のことを二の次にするのは簡単だ」

 ピアストリはそう語った。彼の同僚のドライバーや、先人たちが、彼の語る言葉に同意するかどうかは分からない。しかしドライバーとしては、今置かれている状況に勝つのは至難の業だ。従えば”優しすぎる”と非難され、取り決めを破れば”自分勝手だ”と批判される。八方塞がりだ。

 マクラーレンは、この哲学がふたりのドライバーの関係性を維持することに繋がると期待している。確かにこれは、興味深い人間研究の材料とはなりそうだ。そんなことを誰が好んでいるかは知らないが……。

■マクラーレンのふたりは、そうする必要がない時が来るまで、優しく振る舞っている:スチュワート・コドリング

 先日行なわれたイタリアGPでは、マックス・フェルスタッペン(レッドブル)が優勝した。しかし、マクラーレンのどちらかがタイトルを獲得するのは確実。ならば、そろそろ”時”が来ているのではないだろうか?

 マクラーレンは既に今季のコンストラクターズタイトル獲得をほぼ確実に手にしており、早ければ今週末のアゼルバイジャンGPでそれが決着する可能性もある。そしてドライバーズタイトルも、マクラーレンのふたりのどちらかが獲得するのは、間違いないと言っていいだろう。もちろん、最終戦までふたりが潰し合わなければという条件付きだが。

 ふたりの忠誠心といういわば”悪循環”によって、今季のタイトル争いの配当金は、著しく下がってしまった。カチカチの鉄板馬券のようだ。もはや戦いではなく、ただ整然と並んで走っている時だ。

 さあそろそろ、忠誠心を被るのをやめる時が来たのではないかな? そんなもの、もうゴミ箱に捨ててしまう時だ。

■常に沸点の一歩手前……火種を抱えているんじゃないか?:ヘイデン・コッブ

 プレッシャーが高まる中、ピアストリとノリスを公平に扱おうと努力し、窮地に陥りかけた時もそれを解決したマクラーレンについては、賞賛に値すると言える。ドライバーふたりもチームの哲学を受け入れ、衝突する瞬間があっても直接対決を避けてきた。これも賞賛されるべきだろう。

 世界規模に成長したスポーツが、魔術や陰謀、あるいは罵詈雑言に訴えないのは、ある意味では爽快だ。一方で奇妙な気もする。特にF1では、タイトル争いともなれば、全面戦争やチームメイト同士が敵対する……そんな展開に我々は慣れすぎているのかもしれない。ただそういう展開こそが、歴史に残る正しい理由と間違った理由の双方を併せ持っている。フェルスタッペンvsハミルトン、セナvsプロスト……そういう類のモノだ。

 今季のチャンピオン争いは、決して王道だとはいえない。カナダではふたりが接触し、ハンガリーでは戦略が分かれたことが不満の火種となった。しかしイタリアでは、チームオーダーにふたりのドライバーが完璧に従い、平穏なままフィニッシュした。

 しかし、いつ本当に火がつくのか分からない。実際、そういうことが起きそうな気がしてならないのだ。

 マクラーレンはふたりのドライバーをなだめることにあらゆる手を尽くしている。長期的に見れば、現在のラインアップが最高であると理解しているからだ。だからこそ、コンストラクターズタイトル獲得を決めたとしても、おいそれと二人のドライバーが直接対決を繰り広げるようなことを放置するわけにはいかない。

 チームにとって重要なのは、現在の調和を長く続けること。もしそれが崩れてしまったら、古き良き時代……言い換えれば古き悪しき時代に戻ってしまう、ということだ。

■今年の争いは、かつてのような緊迫感に欠ける:エド・ハーディ

 F1のチャンピオン争いに何を求めるのか? 私は、ホイール・トゥ・ホイールの激しいレース、ギリギリ/ドキドキする瞬間、ほと走る情熱、そしてコース外でのちょっとしたドラマがあったらいいなと思う。

 そういうことは何度も起きてきた。最高の例は1987年だ。チームメイト同士の戦いだったから、2025年に最も近いかもしれない。最近では2021年もそうだ。その年のサウジアラビアGPをパブで観戦していた時、F1がプレミアリーグから主役の座を奪ったことに、衝撃を受けたものだ。

 ハミルトンとフェルスタッペンの争いは、多くの人の注目を集めた。そういう光景を目にしたのは初めてだった。人々はドラマが起きることを求め、情熱が溢れることを愛する。だからスポーツ観戦は素晴らしいのだ。

 しかし2025年のF1にはそれが欠けている。地元のパブのメインスクリーンで、F1がサッカーに匹敵するほどの盛り上がりを見せることは、当分ないだろう。

 イタリアGPの事例を見てみよう。ピアストリは予選でノリスのトウを使わせたが、決勝ではチームオーダーが発令され、ピアストリは勝つことを許されなかった。1987年にウイリアムズがピケやマンセルにそんな指示を出していたら、彼らはどんな判断をしただろうか? おそらく、チームオーダーには従わなかったはずだ。

 ただノリスだったとしても、全く同じようにチームオーダーを受け入れただろうから、そうしたからと言ってピアストリを非難する理由にはならない。

 私としては、許容範囲の限界に挑戦しつつ、その許容範囲の中に留めるのは、F1ならば当然のことだと思う。それが、究極の戦いの中で勝利を掴む、アスリートとしての姿勢を示すことになると思うからだ。精神的な戦いに打ち勝つことは、サーキットで勝つのと同じくらい重要なんだ。

 マクラーレンのふたりのドライバーは、もっと汚い戦い方を望むとは思わない。しかし、彼らは自信を持っているはずだ。

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