天才子役だった「青影」だが、学校の成績は?
鼻に手をあて、「だいじょ~ぶ」のセリフでおなじみだったのが、少年忍者の青影を演じた金子吉延さんです。大ヒット映画『大忍術映画 ワタリ』(1966年)に主演するなど、天才子役として評判でした。『赤影』放送時は12歳でした。
赤影や白影に窮地を救われることの多かった青影ですが、テレビを観ていた子供たちは青影に感情移入しながら『赤影』の世界を身近に楽しむことができたようです。
その後も人気子役として引っ張りだこだった金子さんは、学校に通うことがなかなかできませんでした。小学校では通信簿で「オール1」をとるなど、学校の成績はさんざんだったようです。
25歳のときに金子さんは空調関係の会社を始め、芸能界は引退しています。しかし、その後も『赤影』ファンとは交流を続け、近年はビデオ作品への出演やイベントなどに参加し、その様子を金子吉延オフィシャルサイト「だいじょ~うぶ!」で報告しています。『赤影』の語り部として、いつまでも元気でいてほしいものです。
仮面の重圧と闘い続けた「赤影」
そして、真っ赤な仮面をつけた赤影を演じたのが、坂口祐三郎さんです。高倉健さん、千葉真一さんら映画スターを輩出した東映ニューフェイスの第8期生として芸能界入り。今でいうイケメン俳優で、初主演ドラマ『赤影』で大ブレイクしました。『赤影』のオーディションは、主題歌「忍者マーチ」の歌詞にある「キラリと光る すずしい目」が決め手となったそうです。
「赤影参上!」という決めゼリフを考え、ピアノ線で吊られるなどのスタントの多くも坂口さん自身が手掛けていました。1年間にわたる撮影で体重が10キロ減ったそうですが、当時の東映から支払われていた日給はわずか「270円」だったと言われています。今とは物価が違うとはいえ、『赤影』の撮影はかなりハードだったことが偲ばれます。
坂口さんをモデルにした小説『仮面と生きた男』(扶桑社)を読むと、番組が終わってからも苦労の連続だったことが分かります。仮面を付けたイメージがあまりにも大きすぎ、思うような作品に出演することが叶わなかったのです。女性関係などのトラブルもあり、『赤影』以降は代表作を残すことができませんでした。
女性にモテモテだった体験談をもとに「東京スポーツ新聞」で、エッチな占いコラムを連載した時期もありました。少しでも名を売って、再び人気俳優に戻りたいという気持ちからでした。赤影のイメージから脱するのに、相当に苦しんだようです。
その後は日光ウエスタン村でショーの演出や、保安官レッドシャドウとしてアトラクションに出演などもし、やがて故郷の久留米に戻り、俳優志望の若者たちの指導に情熱を注ぐようになっていきます。
晩年の坂口さんは、『赤影』に対する認識を改め、新しい『赤影』の企画に積極的に乗り出していました。しかし、2003年に脳幹出血で倒れ、61歳という年齢で帰らぬ人となりました。
赤影の仮面は、坂口さんの人生に強烈な光と影をもたらしたように思います。令和の赤影は、はたしてどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。
