90年代、テレビのバラエティ番組は絶大な影響力を持ち、数々のヒット曲を生み出した。ポケットビスケッツ、猿岩石、Something ELseなど、番組発のユニットは「CDが売れなければ即解散」といった過酷な企画と共に、視聴者を巻き込み社会現象を巻き起こした。しかし、その手法は次第に過激化していく……。
『90年代J-POP なぜあの名曲は「2位」だったのか』より抜粋・再構成して、90年代バラエティ番組発のヒット曲の軌跡をお届けする。
野猿はチャート1位を取れなかった
90年代はテレビのバラエティ番組から生まれた曲が多数ヒットした。異なる放送局、芸人によるユニットで、複数枚の大ヒット曲が誕生しているのが、他の時代にはない特徴だ。
80年代もバラエティ番組から年間ランキング上位に入った曲は複数誕生している。ただし、その多くは「視聴率200%男」と呼ばれた、萩本欽一の番組、いわゆる「欽ちゃんファミリー」の曲だ。『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(フジテレビ系)から誕生し、7週連続1位、160万枚のミリオンヒットを記録したイモ欽トリオの『ハイスクールララバイ』(81年)。『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)発、わらべの『めだかの兄妹』(82年)、『もしも明日が…。』(83年)。『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)からは風見慎吾(現・風見しんご)のデビュー曲『僕笑っちゃいます』(83年)といった具合に、放送局、番組をまたいでヒット曲を次々と生み出している。
しかし、80年代は萩本欽一という王者が存在し、そこから生み出されている点が、多様な90年代とは異なるところだ。
『THE MANZAI』(フジテレビ系)や『花王名人劇場』(フジテレビ系)をきっかけにブレイクした漫才師たちはどうか。ザ・ぼんちのデビューシングル『恋のぼんちシート』(81年)はオリコン最高2位、80万枚超を売り上げ、漫才師として初となる日本武道館公演を行うまでの大ヒットとなったが、同じ規模のヒット曲が続いたわけではなかった。
また、伝説のお笑い番組『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)からも大瀧詠一が手掛けた『うなずきマーチ』(82年)や、桑田佳祐が手掛け、明石家さんまが歌った『アミダばばあの唄』(83年)など個性的な曲が話題を呼んだが、歴史に残る大ヒットは記録していない。
その点、90年代は複数の番組、複数の芸人・タレントからヒット曲が生まれた。また「欽ちゃんの人気、仕掛け」とは異なる形の「音楽企画を継続させるノウハウ」が誕生し、それが放送局や番組を超えて共有されていた時代だった。
たとえば、とんねるずが番組スタッフと結成したユニット・野猿。こちらは98年、『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)内のコーナー「ほんとのうたばん」から誕生した。音楽番組『うたばん』(TBS系)を模したコーナーで、KinKi Kids(現:DOMOTO)のパロディをとんねるずが演じる際、スタッフがバックダンサーをつとめたことがきっかけで結成。「手売り販売」や「人気投票によるメンバー脱落」が行われたが、これはオーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京)を思わせるドキュメンタリー風の手法だった。
見事に各局の音楽企画のいいところをミックスして見どころを作った野猿。2001年までの活動で11枚のシングルをリリースし、すべてがトップテン入りする人気を誇り、紅白歌合戦にも出場した。しかし、チャートアクションはというと、98年発売のセカンドシングル『叫び』の2位が最高位。どれだけ視聴率が高く、人気を集めても「テレビの企画から1位を生み出す」という壁は高かったということだろう。
ポケビと猿岩石の快挙
「とんねるず&フジテレビ」が越えられなかった壁を乗り越えたのが「ウッチャンナンチャン&日本テレビ」のタッグだ。バラエティ番組『ウッチャンナンチャンのウリナリ‼』から生まれたユニット・ポケットビスケッツ(通称「ポケビ」)のシングル『POWER』(98年)が1位を獲得している。ポケビには「ライバルユニット(ブラックビスケッツ・通称「ブラビ」)との対決企画」「視聴者に購入を煽る流れ」があったが、野猿にはなかった。その結果、野猿は「ミリオンセラーと1位」がなく、ポケビは「ミリオンセラーが2作、最高順位は1位」という結果が出ている。
ポケビはデビュー時、番組のエンディングテーマをめぐっての対決に勝利。セカンドシングル『YELLOW YELLOW HAPPY』(96年)の発売時は「デビューシングル『Rapturous Blue』の最高20位に届かなかったら解散」という条件を乗り越え、活動の継続が決まった。
このチャートを利用したCD購入煽り企画は、同じ日本テレビ系の番組『進め!電波少年』の中で過去に展開されていたものだった。ポケビのデビューからさかのぼること3年、番組から生まれたアイドル「電波子」のデビューシングル『駈けていく少女』(93年)が発売された。
その際、「20位以内でヌード」という企画が発表された。これは「20位以内に入らなかったらヌード」ではなく「20位以内に入ったらヌード」という意味。「こんなロクでもない番組の企画をきっかけに生まれたアイドルのデビュー曲がオリコン20位に入るわけがない。でも、入っちゃった日にはヌードだよ」というニュアンスだ。
そして結果は27位。『進め!電波少年』の注目度は高まりつつあったものの、番組がはじまって1年ほどというタイミングだったので、まだ影響力はなかった。この3年後の96年、有吉弘行と森脇和成によるお笑いコンビ・猿岩石の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」で注目度が大きく跳ね上がったのだが、その頃行われていたのが前述のポケビの企画。「最高20位に届かなかったら解散」という、電波子とはまったく種類の異なる企画だ。
余談だが、猿岩石は藤井フミヤ、藤井尚之が作詞作曲を手掛けた『白い雲のように』でデビュー。累積113万枚を売り上げたが最高3位だった。この曲もポケビ、ブラビ同様ロングセラーによるミリオンヒット。番組視聴に加え、番組を見ていない層が楽曲のよさを感じた時、テレビ番組発の歌はロングセラー&ビッグヒットになりやすいようだ。

