「カンタス航空」創業以来“死亡事故”ゼロ件は奇跡ではない 「フラットな組織文化」が安全性を極限まで高める理由

映画「レインマン」でダスティン・ホフマン演じる飛行機嫌いのレイモンドは、カンタス航空にしか乗ろうとしない。なぜなら、カンタスは創業以来一度も死亡事故を起こしていないから。そしてこの記録はレインマンの公開から35年たった今でも更新され続けている。

カンタスがこのような安全な運行を続けられる理由として、厳しい安全基準、最新鋭の機材と徹底した整備、優秀な乗務員と教育体制、オーストラリア政府の厳格なチェックなどが説明されることが多い。しかし、筆者が研究する「安全心理学」の観点からは、これらの理由にプラスして、オーストラリアの「平等で開かれた文化」や「国民性」が安全に寄与しているとも考えられる。

安全の秘密は「ファーストネーム」文化?

オーストラリアは移民国家であり、さまざまな国籍や文化的背景を持つ人々が共生しているため、お互いを受け入れ、寛容でオープンな平等主義が根付いている。上司や客でもファーストネームで呼び合うことが一般的だ。もちろんカンタスのクルーたちもファーストネームで呼び合っているという。

立場や地位に関わらずファーストネームで呼び合う文化は、人と人との垣根を低くし、フラットなコミュニケーションを促進する土壌となっているが、これはどのように安全へ貢献するのだろうか。

Googleは2015年、チームのパフォーマンスを最大化する要因を探る研究「プロジェクト・アリストテレス」の中で、高いパフォーマンスを生むチームは「心理的安全性」が高いことを突き止めた。

Google re:Work「『効果的なチームとは何か』を知る」より(※画像の一部を加工しています)

「心理的安全性が高い」とは、チーム内でメンバーがどのような発言をしても「無知だ」「無能だ」「ネガティブだ」などと思われる不安がない状態である。上司への指摘、現状の改善提案、初歩的内容の質問などをしても、非難されたり評価を下げられたりせず、言いたいことを安心して言える環境ともいえる。

メンバー同士が互いを信頼し、誰もが自由に意見を述べ合える雰囲気があれば、チームの課題は誰かが気づいた時にすぐに共有される。したがって、潜在的な危険の見落としが減り、「心理的安全性」だけではなく「物理的安全性」も高められるのである。

権威勾配は事故を招く可能性も…

本当に「フラットな雰囲気」程度のことが安全に寄与するのかと疑問に思う方もいるかもしれないが、“逆の事例”と考えられる航空機事故が実際に起きている。

たとえば名古屋空港で墜落した中華航空機の事故(1994年)では、副操縦士が機長に対して、自分が誤操作したことや操縦輪に異常な力がかかっていたことを報告しなかった。そのため、機長は航空機の状態を正しく把握できず、最終的にコントロール不能に陥ってしまったと考えられている。

副操縦士はなぜ報告をためらったのだろうか?

もしこの時、機長と副操縦士の間に上下関係を超えて自由に発言できる「フラットな雰囲気」があり、コミュニケーションが円滑に取られていれば、事故は防げたかもしれない。

航空機が他の乗り物と異なる点は、離陸してしまえば着陸するまで外部からの人的支援を受けられないことである。空を飛んでいる間は、乗っているクルーだけですべての対処を行わなければならない。そして、高速で飛んでいる、空中で止まれない(一部の回転翼機等を除く)、燃料が無くなれば墜落するなどの特徴から、問題に対処できる時間は限られている。

クルーの誰かが異常に気づいたり、ミスを犯したり、認識の違いを感じたりした時に、コミュニケーションを少しでもためらい、適切な対処の機会を逸せば、最悪の事態を招いてしまうおそれがあるのだ。

「心理的安全性」が組織にもたらす影響

フラットな組織文化が重要なのは、何も航空業界に限った話ではない。

前述のGoogleの研究のように、「心理的安全性」が確保され、円滑にコミュニケーションできる関係性は、チームの高いパフォーマンスと危機の未然防止につながる。反対に、権威勾配が強く、発言を遠慮する空気が流れ、権威主義的で一方向的なコミュニケーションが取られる環境では、パフォーマンスの低下や危険の見落としが起きやすい。

みなさんの働く職場や組織の状態はどうだろうか。

もちろん、日本文化を背景としたわれわれが、上司や客をファーストネームで呼ぶのは簡単ではない。しかし、何も「ファーストネームで呼び合う」ことが重要なのではなく、対等な人間関係を意識し、互いに思ったことを気兼ねなく言い合える雰囲気を心がければ、円滑なコミュニケーションが生まれ、生産性も向上するはずである。安全でパフォーマンスの高いチームを作るためにも、自分の職場や組織の「心理的安全性」について考えてみてはいかがだろうか。