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譲位で挑んだ天皇の逆襲。なぜ女帝誕生は徳川秀忠の計画を挫いたのか

譲位で挑んだ天皇の逆襲。なぜ女帝誕生は徳川秀忠の計画を挫いたのか

「改元は漢朝の元号から吉例を選ぶこと」「紫の衣はよく考えて与えるべきである」──本来、皇室の領域であるはずの事柄すらも、幕府の支配下へと置いた「禁中並公家諸法度」。だが「紫衣事件」を境に、朝廷は逆襲へと転じていく――(以下、倉山満著『噓だらけの日本近世史』より一部抜粋)

◆紫衣事件──幕府の「無効」主張

後水尾天皇
後水尾天皇像(写真=徳川秀忠像松平西福寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
 一六二七(寛永四)年、紫衣事件が起こります。後水尾天皇は幕府に相談なく、多くの僧侶に紫衣を与えました。禁中並公家中諸法度第十六条には「よく考えて与えるべきある」としか書いていないし、紫衣の授与は朝廷の貴重な収入源ですし、そもそも天皇が何をしようが構わないはずです。ところが幕府は「聞いてない」と言い出しました。幕府の解釈は、「幕府に相談なしの紫衣の授与は無効である」です。禁中並公家中諸法度の二年前に、「公家法度」「紫衣法度」を発し、そこでは幕府に事前許可を得よとされていましたが、それは禁中並公家諸法度に変わったはず。しかし幕府は、禁中並公家中諸法度でも幕府の事前許可が必要であるとの解釈を押し付けました。

 露骨な「解釈改憲」に、紫衣を与えられた高僧の沢庵らが抗議しますが、幕府は島流しで応えます。ちなみに沢庵和尚、漬物の沢庵の語源とも言われる人ですが、幕府とも人脈がある高僧。でも、お構いなし。

◆譲位の意向も「秀忠の意向」で却下

 一六二八年七月、ここで天皇は譲位の意向を幕府に伝えます。可哀そうに高仁親王は、一か月前に満二歳で夭折。和子さんは妊娠中でしたが、まだ男女どちらかはわかりません。天皇は女一宮(後の明正天皇)への譲位の意向を漏らしますが、家光が「相国様(秀忠)の意向で」と止めて沙汰やみです。

 九月、和子が産んだのは男の子でした。幕府は天皇の譲位を警戒して、生まれたばかりの皇子を智仁親王の猶子にしてしまいます。親王には息子がいるのに(野村玄「明正天皇論」(『京都産業大学論集』二九号)。ただ、幕府が神経質になりすぎで、この皇子は生後十日で亡くなってしまいました。

 一六二九年五月、天皇は腫物治療を名目に、またもや譲位の意向を伝えます。これを秀忠は、何度も依頼を受けていた沢庵らの赦免も含めて、まとめて拒否。

 それどころか九月、将軍家光の乳母である「おふく」が参内の意向を示します。これは秀忠の意向だったようで(『国史大辞典』「春日局」の項)。何を考えたか知りませんが、天皇の様子を探らせようとしたようです。しかし、一介の武家の娘が天皇に拝謁を賜るなど、許されません。そこで遠縁の三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の猶妹となり、「これで形式は整っただろう」と言わんばかりの態度。実条のお父さんが亡くなっていて養子になれないので、養妹。ここに、天皇の怒りは頂点に達します。


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