黒柳さんが毎日のように自宅に通った、向田邦子さん
「向田さんは私の4つ上で、初めて会ったのは彼女が書いたラジオドラマに出演したとき。30代半ばだった向田さんは、まさに売れっ子になろうとしている頃でした。
当時、私はテレビ朝日とNHKとTBSと掛け持ちで仕事をしていて、テレビ局に近い向田さんのマンションが便利だったこともあって(笑)、本当に毎日、通っていました。
別に何をするわけじゃないんです。私は長いすに横になって本を読んだり、セリフを覚えたりして、向田さんは机に向かって何か書いたり、やっぱり本を読んだりなんかして。
時間がたつと『ごはん食べようか』と言って、おいしい料理を作ってくれました。ナスの煮びたしとかサヤインゲンのショウガあえなんかをチャチャッと作るのがとても上手な人でした。
どうして向田さんは、毎日やって来る私に何も言わないのかなと時々思うことがありました。
これは向田さんが亡くなった後、妹の和子さんがお出しになった『向田邦子の恋文』を読んでわかったんですけど、向田さんは恋人が亡くなって、すごく寂しい時期だったみたいね。だから面白い話もする年下の私がいると、ちょうどよかったのかもしれません」(黒柳さん)
大切な言葉1:「禍福はあざなえる縄のごとし」
「あるとき向田さんのシナリオに『禍福はあざなえる縄のごとし』というセリフがあって、私がどんな意味かと聞くと、『幸せと災いはね、かわりばんこに来るの。幸せの縄と不幸の縄をよってできているのが人生なのよ』って。
私が思わず『幸せの縄2本で編んでる人生はないの?』と質問したら、『ないのよ』って向田さんは即座に言いました。向田さんが亡くなったとき、本当にそうだと思いましたね。
向田さんが直木賞をもらって『おめでとう』とみんなでお祝いして、それから1年もたたないうちに飛行機事故で台湾の空に消えてしまった。まさに禍福はあざなえる縄のごとし。向田さんの言った通りでした」(黒柳さん)
大切な言葉2:「早くおばあさんになってね」
「私は向田さんのテレビドラマに出たことは一度もなく、『私の書く日本の家族に、徹子さんみたいな人は出てこないの』と向田さんは言っていました。『でもね、外国映画のおばあさんみたいに、あなたにしかできない面白いおばあさん役があると思うの。早くおばあさんになってね』って。
時々思い出して、なんだ、向田さん、書いてくれるって言ったじゃないと思ったりすることがあります」(黒柳さん)
黒柳さんのもう一人の母、沢村貞子さん
もう一人、黒柳さんが「母さん」と呼んで尊敬していたのが女優の沢村貞子さんです。出会った頃、沢村さんは50代、黒柳さんは20代。以来、沢村さんが87歳で亡くなるまで深く温かい交流が続きました。
大切な言葉3:「一生懸命やると、後悔しない」
「最初にお会いしたのはNHKの番組『若い季節』でした。渥美清さん、坂本九さんをはじめたくさんのスターが出ていて、本番前にみんなで連れ立って晩御飯を食べに行くんですが、母さんは行かないでいつもお手製のお弁当を食べていました。
つくねやお豆腐の炒ったのなんかが入ったおいしそうなお弁当で、私も半分もらって食べたりしていましたね。
撮影現場の母さんは怖かったですよ。セリフをちょっとでも覚えていないと『ダメだよ、覚えてこなきゃ』、みんなでふざけていると『ここは真面目なところなんだからね』と叱られて。
母さんはきちっとセリフを覚えてきて、とにかく早く撮影を終わらせ、早く帰って、父さん(編集部注・夫で編集者の大橋恭彦さん)にごはんを作りたかったんです。
母さんは父さんを大切にしていて、いつも一生懸命で、“そこまでするのか”と私が驚くほどでした。
母さんは晩年、『徹子の部屋』に出たとき『人間ってね、一生懸命やると、後悔しないものよ』と言いました。この言葉に、母さんという人が集約されているように思うんです。
母さんは生涯、父さんのためにできるだけのことをやって、だから後悔も未練もなかった。母さんが亡くなったのは、父さんの三回忌から3か月後。凛とした最期でした」(黒柳さん)

