小沢樹里さん(45歳)は、この事故で夫の両親を奪われ、義弟と義妹も重傷を負った。「やっと温かい家庭を持てたと思った」――その矢先の悲劇で、夫婦の結婚式からわずか1年の出来事だった。
「刑事裁判が終わっても、事件はまだ終わっていない」
何度もそう思った。事件後をどう生きたか、小沢さんの胸の内を聞いた。

◆事件後も続く過酷な現実
小沢さんの手元に1冊のノートがある。被害者ノートだ。被害者ノートは、小沢さんがほかの遺族らとともに自身の経験から考案したもので、被害者目線に立った作り込みが徹底されている。2008年の事故からずっと、小沢さんは考え続けたことがあった。つらい状況にいる犯罪被害者が、警察でも検察でも役所でも病院でも、同じ話をさせられる。「何度も同じ話をして、思い出させるのがつらい」。そんな夫のつぶやきが原点だった。被害者ノートの成立の背景には、犯罪被害者が置かれた特有の事情が多分に関係してくる。
「現在でもそうですが、当時はすべての犯罪被害者が持ち出しで活動をしていました。犯罪被害者は、近しい人を失った悲しみを抱えながら、何度も同じ話をさせられ、そのたびに思い出し、法廷でも闘い、日々の生活を回していかなければなりません。被害者ノートの存在によって、新しい被害者が生まれたときにその人の目線に立てるようにしたかったのです」
熊谷9人死傷事故は、泥酔状態で車を運転した男が、猛スピードで対向車にぶつかり、死傷させた事件。その凄惨さはもちろん、加害者に危険運転致死傷罪が適用され懲役16年が科せられただけでなく、同乗者にも危険運転致死傷ほう助罪が、飲食店には道路交通法違反(酒類提供)が、それぞれ適用されたことでも注目を集めた。
そもそも危険運転致死傷罪が施行された2001年以前は、飲酒運転によって悲惨な結果を招いたとしても、業務上過失致死罪を適用するしかなかった。同罪の法定刑は上限5年とされており、「飲酒運転に甘い」との批判が絶えなかった。
小沢さんの事件は、そうした時代と比較すれば、一歩前進した判決を勝ち得ているようにもみえる。だがいくら制度が整備されても、実生活が救われるわけではない。
◆見過ごされていた「高次脳機能障害」の苦悩
「事件後、私たち夫婦は、双子の義弟と義妹(当時21歳)と同居することにしました。一緒に暮らしていくうちに、どうも2人の様子が変であることに気がつきました。一例ですが、買ってきた豆腐を冷凍庫に入れてしまったり、リモコンが冷蔵庫に入っていたり……。理不尽に両親を失くす経験をした子たちですから、最初のほうは『事故のショックだろう』と考えていましたし、主人もそう言っていました」だが2人は一向に日常生活をサポートなしに送れるには至らなかった。当時はまだ刑事裁判も終わっておらず、生活を回していくことの困難さに小沢さんはやきもきした。「様子が変だ」と心配する小沢さんと、「きっとショックを受けているだけだよ」と窘める夫で意見が食い違った。
「1年、1年半と時間が過ぎて、いよいよ本当におかしな状況だとわかりました。私たちの長男は事件当時4歳で、彼が小学生になった頃には、身の回りのことを義弟妹たちよりもできるようになっていたのです」
決定的だったのは義弟の言葉だ。事件の影響で脊髄損傷を負っていた彼は、体内に金属プレートを埋め込んでいた。定期検診で、その金属プレートが折れていることが判明。医師が「通常、違和感があるはずですが」と問いかけると、「確かに言われてみれば、金属音がします」と義弟は答えた。
この問答に強い違和感を覚えた小沢さんは、手を尽くして病院を調べた。双子はそれぞれ高次脳機能障害を患っていることがわかった。事件から1年半以上経過してやっとわかった事実だった。
「原因がわかったことでホッとした気持ちが強かったです。同時に申し訳なくも思いました。『事件からこんなに年月が経っているのに、気づいてあげられなかったんです』と看護師さんに漏らすと、『高次脳機能障害を持った方は、家族に1人いるだけでもたいへんなのに、2人も抱えていてたいへんだったでしょう』と言われました。当時、先の見えない裁判が心の負担になっていました。こうやって、連れて行くべき場所に家族を連れていけないのが事件なのだと感じました」

