では、Jリーグ初年の年間王者の監督という、日本サッカーの歴史に十分に名を残す経歴を持っているのは誰か。それは松木安太郎である。
※本記事は、『緑の血脈~東京ヴェルディ 異端の源流~』(彩図社)より適宜抜粋したものです。

◆「終身雇用」と「年功序列」
テレビ朝日1階のカフェで、私は松木に会った。松木は読売サッカークラブの下部組織で育ち、高校2年の頃にはトップチームの試合にも出場している。その後は、右サイドバックのレギュラーで、キャプテンも務めた。1989年に現役を引退すると、読売クラブで指導者の道を歩んだ。松木は読売クラブについてこう振り返る。
「クラブの内部ではプロとして扱われていました。昭和の時代の象徴ともいえる年功序列と終身雇用とは逆行していました」
現代社会において「終身雇用」「年功序列」は、「神話」となりつつある。しかし、松木が読売クラブでサッカーをしていた1970年代、80年代は、この「神話」は疑う余地のない「常識」であった。今、令和の時代となり、この懐かしき「神話」は社会生活を送る上で、とても理にかなったものだったのではないかと再評価をされている。
ただ、それはあくまで一般的な社会生活での話。プロスポーツ選手という職業に当てはめるのは無理がある。完全な実力主義のプロスポーツでは、必要とされなければ、それで雇用(契約)は終わり。自分がどれだけ年長者であろうと、どんな実績を持っていようと、他の人材の方が必要と判断されれば、ステージから降りなければならない。一般社会の感覚を持ち込んで勝てるほど、甘くはない。
「読売クラブって先輩も後輩もピッチの上では関係ない。もちろん先輩だってゲームでは呼び捨てですしね。これってサッカーではすごく大事なこと。日本のサッカーが低迷していた理由のひとつが、先輩後輩の関係性がゲーム中でも意識させられていたってことがあると思うんですよ。気を使いすぎていることが足を引っ張っていたんだと思う」
そして、きっぱりと松木は言い切った。
「僕たちは終身雇用や年功序列という生き方には反発を持って生きてきたんです」
◆読売クラブに根づく先駆的な意識
1990年4月12日、日本サッカー協会の理事会が開かれ、プロリーグ創設に向けた原案が承認された。これは川淵三郎が委員長を務めるプロリーグ検討委員会が構想を練ったものである。ここから日本サッカー界のプロ化の動きが本格的にスタートすることになる。そして1991年7月に「Jリーグ(日本プロサッカーリーグ)」の名称が決まった。読売サッカークラブも「ヴェルディ川崎」と名称を変えて、川崎市の等々力陸上競技場を本拠地とすることが決まった。
サッカー界が急速に動く中で、クラブと企業の関係性についてリーグの方針が激しく議論された。ヴェルディは当初、企業名を入れた「読売ヴェルディ」という呼称を名乗ろうとするなど、当事者として議論の渦中にいた。ただ、この歴史的な転換期の中で、当時クラブのコーチを務めていた松木の反応は鈍かった。
「僕はそういうウワサ話には疎かったんですよ。プロリーグができるかもしれないって話は裏ではあったと思うんですが、現場に集中していてね。よく分かってなかった」
他の実業団チームはプロ化へ向けて、大騒ぎとなっていた。選手は企業の社員になるか、プロサッカー選手になるか、選択を迫られた。そもそも企業側もプロサッカークラブとはどんなものかよくわからない。そんな中でも、とにかく環境を整備しなければならないと焦っていた。
ただ一方で、読売クラブは誕生以来、実質的にプロとしての体裁を整えており、この歴史的な転換期であっても、状況の変化にとまどうことは少なかった。松木の反応が鈍かったのも、すでに自分たちのクラブはプロであるとの意識を持っていたからであろう。他のクラブはヴェルディの環境を参考にした。選手の年俸も、ヴェルディの選手たちを基準に設計された。
こうして、Jリーグは誕生した。

