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松木安太郎「日本のサッカー史上、最も難しい仕事をした」Jリーグ開幕初年度に「ヴェルディ川崎」の監督を引き受けたワケ

松木安太郎「日本のサッカー史上、最も難しい仕事をした」Jリーグ開幕初年度に「ヴェルディ川崎」の監督を引き受けたワケ

◆勝てば官軍だが、負ければ…

Jリーグがスタートする前年の1992年。松木が35歳の時だ。ペペ監督が辞任して、ヘッドコーチであった松木が監督に就任することが決まった。世の中の動きに疎かった男が、ここで突然、矢面に立つことになる。

「いつかは監督をやりたいなとは思っていましたけど、まだ早すぎる。そんな感じでした」

リーグ発足当時、いわゆる「オリジナル10」と言われるクラブの中で、もっとも若い監督であった。しかも、これまでトップチームでの監督経験はない。読売サッカークラブは1980年代に日本サッカーリーグを3回制覇し、直近の90年代では2年連続で優勝している。

勝って当たり前。

どんなに素晴らしい結果を出しても、「あれだけの戦力がいればね」と監督の手腕に目は向けられない。ただし、負ければ、「選手は良いんだから監督の責任」と戦犯扱いされる。松木が担うことになる仕事は、想像よりもずっと損な役回りだった。

「これだけの常勝クラブですから、2位ではよくない。そもそも選手時代から優勝しないと何も残らないよって言われる中で育っていますから」

◆10人全員がやめろと言った

また、Jリーグ発足の年はドーハの悲劇で知られるアメリカワールドカップの最終予選があった。ヴェルディ川崎から日本代表として招集されたのは、三浦知良、武田修宏、ラモス瑠偉、北澤豪、柱谷哲二、都並敏史。彼らは日本のサッカー界の命運をかけた重要な戦いを託され、途中でクラブから離れることが決まっていた。主力がいない間のクラブのやりくりも難しい。

もっと細かく分析すれば、柱谷哲二、三浦知良、武田修宏らは年齢的にサッカー選手として最も脂が乗っている時期であったが、ラモス瑠偉、加藤久、戸塚哲也、都並敏史はすでにベテランと呼ばれるような領域に達している。確かに圧倒的な戦力は保持していたものの、まさにこの瞬間が最盛期であり、今後のことも考えれば、新しい選手たちの成長を促すことも必要であった。監督としてやるべき仕事は、とても多かった。

「10人に相談したら、10人にやめておけって言われる状況でした。僕ももっといろいろな形で勉強をしてから、監督になれればよかったとは思います。ただね、僕が指名されたのは、今までのクラブの流れを知っている人間であることも大きかったんだと思う。伝統を引き継いでいくために僕が指名されたんじゃないかな。だから僕が引き受けたのは、このクラブでお世話になった方々への恩返しという意味もありましたよ」

まだサッカーというものが日本でマイナーであった時代。誕生してからずっと日本サッカーの本格的なプロ化を目指していたのが読売クラブである。そんなクラブに育成年代から所属している松木は、クラブの歴史的な意味を十分に理解している存在だった。Jリーグ誕生という節目に、彼こそが監督にふさわしいとクラブ側が考えたのは十分に理解できる。

監督就任当初は、まだJリーグがどうなるかわからない。そしてヴェルディ川崎というクラブも、どうなるのかわからない。ただ、「年功序列」と「終身雇用」という生き方に抗ってきた松木には、人知れず秘めた決意があった。

「最終的に引き受けましたが、これが僕の最後のステージだと覚悟を持っていた。ダメな時は自ら辞めなくちゃいけない。その時はクラブに残ろうとは思っていなかった。武士道のような感じかな。ただね、僕の仕事はこのクラブが将来、何百年も繁栄をしていくための準備で、1年で辞めようが2年で辞めようがやった仕事はこのクラブに残るはず」


配信元: 日刊SPA!

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