「補殺」「刺す」などの野球用語が見直しへ…賛否を呼んだ宮城県高野連の動きが“表面的な言葉狩り”だとは言い切れない理由

「補殺」「刺す」などの野球用語が見直しへ…賛否を呼んだ宮城県高野連の動きが“表面的な言葉狩り”だとは言い切れない理由

◆「英語以上に暴力性が伝わりやすい」日本語の特性

 そして、こうした海外の事例を踏まえたとしても、日本の野球用語が持つ独特の危うさを指摘しておかねばなりません。英語の「Putout」や「Sacrifice」といった言葉に比べて、日本語の「補殺」や「刺す」「犠牲」という言葉は、漢字そのものが持つ視覚的・聴覚的な意味の生々しさが突出しているからです。

 日本語は漢字によって意味が視覚的にも強く伝わる言語であり、「補殺」「刺す」のような表現は英語以上に暴力性が伝わりやすい特性があります。刺々しい響きが、野球という競技のイメージに与えるマイナスの影響について懸念するのは、決して不自然なことではありません。

 さらに、少年野球を指導する大人がなんのためらいもなく「補殺」や「刺す」などの言葉を使うことによって、子供たちに体罰や威圧的な態度を取ることへの悪い意味での免疫がついてしまうのではないかという不安が起こり得ることも納得できる話です。

 もし高野連の言う「教育上の問題」が、こうした言葉の持つむき出しの感覚が与える悪影響を想定しているのであれば、今回の見直し検討には一応の理解ができると言えます。

◆高野連の対応を「過剰だ」と批判する人々の心理

 それでも、今回の動きを批判する人たちは、これを「歴史修正主義」的なアプローチだと言ったり、ポリティカル・コレクトネスを重視しすぎるあまりの「過剰反応」だと主張します。

 ここで思い出されるのが、2023年にイギリスで起きたロアルド・ダールの表現修正問題です。高野連の対応を「過剰だ」と批判する人々の心理は、このダールの一件への反発と、どこか重なるところがあるからです。

『チャーリーとチョコレート工場』などで知られるダールの児童文学について、現代の価値観から見て人種差別的、あるいは外見差別的とされる語句が出版社によって修正され、これがイギリス国会を巻き込むほどの大論争に発展しました。

 結果として「これは行き過ぎた検閲であり、歴史の書き換えだ」という世論が優勢になり、最終的にはオリジナルのバージョンも並行して出版し直されるという結末を迎えました。時代に合わせた表現に修正するという流れに、明確な「NO」が突きつけられた一件です。

 しかし、高校野球の言葉と、ロアルド・ダールの小説の一件は、異なる種類の話です。ダールの文学作品は歪んだユーモアや毒を表現するために、ダールという作家が自身の名前と責任において、「この言葉でなければいけない」という信念のもとに選んだ、固有の芸術作品です。また、その本を読むかどうかは、読者が自らの意思で選ぶことができます。

 一方で、野球の用語は個人の創造力の産物ではありません。それは条例や法律、公的な文書の文言に近い、いわば競技を円滑に進めるための「共有の道具であり、記号」に過ぎないのです。ダールの言葉が「そうでなければならない」必然性を持つのに対し、「補殺」や「刺す」は、時代の価値観に合わせていつでも変更可能な、ただのシステム上の記号なのです。

「補殺」や「刺す」と言わなくなったからといって、野球の試合が成り立たなくなるわけではないのです。

配信元: 日刊SPA!

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