「1万円を得る喜び」より「1万円を失う苦痛」のほうが強く感じる
前の項では、SNSを通じた比較が不安通貨を増やすことをお伝えしました。では、なぜ比較はこれほどまでに強い不安を生むのでしょうか。そして、なぜ不安は一度生まれると自然に消えることなく、むしろ増え続けるのでしょうか。その答えは、私たちの脳の仕組みの中にあります。
人間の脳は、長い進化の過程で「危機を避けること」を最優先に発達してきました。原始時代であれば、楽観的でいるよりも、少しでも危険の兆候を察知して警戒するほうが生き延びる確率は高かったはずです。そのため私たちの脳は、不確実な状況に置かれると、安心よりも先に不安を強く感じるようにできています。
心理学では、この傾向を「ネガティビティ・バイアス」と呼びます。ポジティブな出来事よりもネガティブな出来事のほうが、記憶にも感情にも強く残りやすいという認知の偏りです。
ポジティブな結果が出ても「たまたまかもしれない」と疑い、ネガティブな結果が出ると「やっぱりダメだった」と強く刻まれる。このネガティブな体験のほうが記憶にも行動にも強く残るという非対称性が、不安通貨の増殖を加速させる土壌になっています。
この特性をさらに明確に示したのが、ダニエル・カーネマン(ノーベル経済学賞を受賞)とエイモス・トベルスキーによる行動経済学の「プロスペクト理論」です。
この理論が明らかにしたのは、人は同じ金額の利得と損失を比べたとき、損失のほうが大きく感じられるということ。その後の研究や他の解説では、おおよそ2倍以上強く感じる傾向があるともいわれています。
つまり、得をする喜びよりも、損をする不安のほうがはるかに大きい。人は「幸せになりたい」という欲求よりも、「損をしたくない」「不安を避けたい」という感情に強く突き動かされることが、この研究によって示されています。例えば、「1万円を得る喜び」より「1万円を失う苦痛」のほうが、心理的には強く感じるということです。
この心理的な違いが、私たちの行動にどのような影響を及ぼすのでしょうか。
将来への不安から、「最悪のシナリオ」を想定してしまう
こうした心理的な性質があるからこそ、私たちは「やらないことで損をするかもしれない」という感覚に敏感になったり、まだ何も失っていないのに、「機会を逃すこと」が損失のように感じられたりします。他人の成功を見たときに生まれる焦りは、実際の損失ではなく、“感じた損失”なのです。
不安通貨は、この心理の上に発行されます。現実の数字ではなく、頭の中で拡大された損失感覚が、私たちを動かしています。だからこそ、不安は増えやすく、安心は手に入りにくいのです。
さらに注目すべきは、この理論が「比較」にも当てはまるという点。行動経済学では、人は他者と比べたときの不利を、実際の損失のように感じるということが示されています。つまり、他人より劣っていると感じること自体が、脳の中では心理的な「損失」として処理されるのです。
前項で見た「比較コスト」の正体がここにあります。比較が不安を生むのは、気の持ちようの問題ではなく、脳の構造がそうさせているのです。
研究報告によると、将来の予測がつかない状態では、脳は常に最悪のシナリオを想定し続けるとされています。つまり、不安の本質は、不確実性への反応。人は「悪い出来事そのもの」よりも何が起きるかわからない不確実な状態に強く反応するともいわれています(※)。
なぜこの不確実性がつらいかというと、不確実な状態では、予測できない、コントロールできない、準備できないからです。人は確実に悪い結果よりも、「どうなるかわからない状態」のほうがストレスを感じることもあるという報告もあります。
