「ちょっと取材、過熱しすぎ」「長時間報じるニュースなのか?」
京都府南丹市の男子小学生が遺体で見つかった事件をめぐり、ネット上でそんな声が相次ぐ中、メディア関係者からも、報道のあり方に懐疑的な見方が出ている。
沖縄県の辺野古沖で小型船が転覆し女子高校生が死亡した事故と比較し、「その熱量をなぜ辺野古の事件に使わない?」といった批判も渦巻く。
なぜ、こうした状況が生まれているのか。元共同通信記者で、早稲田大学教授の澤康臣さんに聞いた。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介)
●昔からある「報じないメディア」への不満
澤さんはまず、「大前提として」と前置きして説明を始めた。
「人はそれぞれ、自分が報じてもらいたいテーマを持っています。とくに政治的な関心がある人ほど、その思いは強くなる。エッジのある論点や、自分が訴えたいことをメディアに取り上げてほしいと考えるのは、ある意味自然なことです。
ただ、新聞やテレビは『定食型』のメディアです。一つひとつのテーマに割ける報道量には限界がある。どこまで報じれば読者や視聴者の期待を満たせるのか、適正な基準はありません。だからこそ、メディアへの不満や不信は常に生まれます」
●「注目が報道を呼び、報道が注目を呼ぶ」スパイラル
では、今回の京都の事件報道をどう見るべきか。
「ショッキングな事件で、多くの人が心を痛める内容ですから、報道の価値はある。メディアが大きく扱うこと自体はおかしくはありません。ただ、さすがにやりすぎでしょう。違和感が生じるレベルに達しています」
そのうえで、ニュースの“膨らみ方”についてこう指摘する。
「ニュースの大きさに『標準』はありません。その時々の状況や他のニュースの有無、市民の関心の熱量によって変わるものです。今回のケースは、行方不明という初期段階から注目を集めたことで、『注目が報道を呼び、報道が注目を呼ぶ』というスパイラルに入った可能性があります」
とはいえ、報道機関が自ら抑制することもできるのではないか。
そう尋ねると、澤さんは共同通信時代の経験を引き合いに現場の葛藤を語った。
「かつて、ある有名人の薬物事件が起きたときのことです。テレビが連日大きく扱っていたので、知り合いの記者に理由を聞いたんです。
すると、『現場はこんなことやめたい。でも、この事件を扱うと視聴率がとんでもなく上がってどうしようもないんだ』という、ほとんど叫びのような答えが返ってきました。
今回も、現場の記者は『もう勘弁してくれ』という気持ちになっているかもしれません」


