フーコーが読み解いた「まなざし」の仕掛け
ミシェル・フーコー。著書『言葉と物』の冒頭で、《ラス・メニーナス》をめぐる「見ること」の仕掛けを論じた。, Public domain, via Wikimedia Commons.
ミシェル・フーコーは、20世紀後半のフランスを代表する哲学者です。その影響力は哲学にとどまらず、社会学、文学、心理学、政治思想にまで広く及んでいます。
フーコーが生涯をかけて考え続けたのは、見る側と見られる側のあいだで「何が起きているのか」でした。彼はそこに人の行動や価値観まで変えてしまう、見えない力の正体を明らかにしようとしたのです。
たとえば、こんな経験はないでしょうか。
ZoomやLINEなどでテレビ電話をしているとき、画面の隅に自分の顔が小さく映っています。相手の話を聞いているつもりなのに、ふと自分の映像が目に入ったとき、髪が乱れていないか、表情が暗くないか、気になりはじめます。
さっきまで「見ている側」だったのに、自分の顔を見た瞬間に「見られている自分」を意識してしまう。
まさにフーコーが関心を向けたのは、見る側と見られる側がぐるりと入れ替わってしまう感覚でした。
普段の私たちは何かを眺めるとき「自分はただの観客だ」と安心しきっています。
たとえばInstagramのストーリーを、なんとなく見ているときです。すると画面に「いつも見てくれてありがとう」という言葉が流れてくる。
その瞬間、投稿者には「誰が見たか」を示す閲覧者リストが見えているのだと気付き、はっとします。
ただ「見ている」だけのつもりだったのに、自分もまた「見られていた」。そう思うと、急にそわそわしてしまいます。
フーコーが『ラス・メニーナス』に見たのも、このように「見ている側」がいつのまにか、「見られる側」に引きずり込まれてしまう仕掛けでした。
「見ること」を描いた絵
フーコーは自らの著書である『言葉と物』(1966年)の冒頭部分を、まるまる『ラス・メニーナス』の分析にあてています。
フーコーは、この絵に何を見たのでしょうか。
普通の絵とは、いわば「窓」のようなものです。額縁の向こうに風景や人物、物語が広がり、見る側の私たちは窓の「こちら」側にいて、安全な場所から「向こう」を眺めています。
しかしベラスケスは、窓の向こう側にある世界を描くかわりに、窓から覗き込んでいる人の存在を、絵の中に仕掛けとして組み込みました。
鏡に映る王と王妃、こちらを見つめるベラスケスの視線、画面奥の扉口でふと立ち止まる男の姿。
どこからともなく複数の視線が集まり、気付いたときに、自分が絵の「外」にいるのか「中」にいるのか、分からなくなってきます。
そこにフーコーは普通の肖像画や宮廷画とは違う、特別な仕掛けを見ました。
『ラス・メニーナス』は何かの風景や場面を「描いた」のではなく、「見ること」を描いている。
絵の前に立った瞬間にそれぞれの視線が動き出し、見る側と見られる側の境界が溶けていくのです。
こうした構造をベラスケスは意図的につくり上げた。このようにフーコーは指摘しました。
