記録にも、人々の記憶にも残る6年4カ月だった。宇賀克也氏が最高裁判事として、個別意見を書いたのは40件(うち反対意見20件)。携わった審理の約3分の1に当たる。「裁判所法に基づき、義務だと思って書いた。たまたま他の人より多かっただけ」と振り返るが、議論の末につむいだ言葉は、司法の歴史に刻まれた。議論の経過をできる限り、公文書に残すこと、その意義を強く感じるのには研究者としての経験があった。(弁護士ドットコムタイムズ2026年6月号より、編集部・川島美穂、写真・永峰拓也)
●裁判所法に従っただけなのに 「異色」と言われた6年4カ月
宇賀氏は在任中、40件で個別意見を書き、「異色」「ラディカル」などと表現された。2025年7月の退官後、取材を積極的に受けたことも「異例」と映った。評議の秘密を理由に、退官後にはメディアに登場しない判事もいるなかで、やはりこれまでにない最高裁判事としての存在感が際立った。
しかし、宇賀氏の考えはあくまでシンプルだ。
「変わったことをしようとしたのではなく、結果なんです。『裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない』とする裁判所法11条は、基本的には全ての裁判官が全ての事件で意見書を書くのが義務のように読める規定。私は、反対意見はもちろん、多数意見に加わった時も、自分の意見が言い尽くされていなければ、個別意見を書くべきだと解釈しました。結論が同じでもそこに至る理由が違ったり、不足している点があると感じたりしたら補足するという形です」
取材を受ける理由についても、公法の基本原理を挙げた。
「公法を専門としてきた学者にとって、公権力の行使には説明責任が伴うのが原則です。裁判はまさに公権力の行使。行使してきた者として、できる限り説明責任を果たしていくべきという考えです」
袴田事件の再審請求や、夫婦同氏制訴訟、性別変更要件をめぐる訴訟など注目裁判への意見が積み上がっていくのと比例するように、宇賀氏の知名度も上がっていった。たとえ裁判に勝てずとも、徹底的に当事者の現状について考え抜き、自身の意見を表明した判事がいたことで救われた人もいただろう。
いま宇賀氏には講演依頼が多く来ており、司法界にとどまらず、関心が高いことを感じさせられるという。メディアを通じた要約ではなく、裁判所のウェブサイトで全文を読んでいる人からの反応もある。
「こんなに多くの人が私の個別意見を読んでくれていたんだと驚きました。サイトには英文もあるので海外の司法関係者から反応があったりと、論文よりも遥かに目に触れる数が多い。書いた甲斐があったと感じます」
判決や決定にまで行き着いたものだけではなく、上告不受理となる案件なども含めれば最高裁が受け付けるのは1年間で1万件以上。膨大な業務量で、寸暇を惜しんで取り組んだ。平日は朝から夕方まで最高裁に詰めていた。
東京大学の本郷キャンパスでは三四郎池のほとりで読書するのが休息のひとときだったが、日中はほとんど自然に触れることはできなかったという。裁判官が残ると、職員も帰れなくなってしまうため、大量の書類を入れたキャリーケースを毎日持ち歩いて、自宅でも作業した。
学生時代から筆が速いと言われていたという宇賀氏だから成し得たことかもしれないが、多忙な中でも論文を発表していた。「自分の研究をするのは、日曜の夕方だけと決めていました」。第三小法廷で共に働いた宮崎裕子元判事も『法律時報』のインタビューなどで、自身が書く前に既に宇賀氏は案文を書き上げていたと証言している。
判例集には載らないものの、宇賀氏は、上告不受理決定への反対の意思を多数表明してきた。2021年までは上告不受理に反対の者がいても、全員一致で不受理と記載していたが、小法廷内での議論で運用が変更された。
いわゆる“門前払い”であっても、それに反対した者がいることが表記されれば、裁判官の間でかなりの議論が行われたことが当事者に伝わる。原告らの納得感も変わってくるだろう。
「当事者にとって最高裁まで来るというのは、一生をかけた大仕事です。こちらも、1万分の1という捉え方ではなく1件1件大切にしなければと思っていました」

●当事者の思いを想像し、 1件1件に真摯に向き合う
袴田事件の再審請求では、大量の訴訟記録を読み込んだ。既に、2014年に袴田巌さんは死刑執行停止、釈放されていたが、東京高裁は2018年に再審開始決定を取り消し。弁護側が最高裁に特別抗告した。
「特殊なDNA鑑定の手法ですから、最初は全く分からなかったです。ただ、分からないと意見は言えない。刑事訴訟法の再審開始要件『無罪を言い渡すべき明らかな証拠』と言えるかどうか。一生懸命、DNA鑑定に関する本を読みました。8冊ぐらい読んでようやく、原審のここがおかしいなというのが見えてきました」。DNA鑑定を担当した本田克也筑波大学名誉教授の「細胞選択的抽出法」を理解するために、何度も何度も国会図書館に通った。
とことん調べ尽くすのは、研究者ゆえ。事件当時の地元の雰囲気を知るために、静岡新聞にも目を通した。「犯人視報道はすさまじく、裁判官も影響されたかもしれないと感じましたし、袴田さんの姉ひで子さんの大変さも伝わってきました」。2020年に最高裁は差戻しを判断。これに対して宇賀氏は、すぐに再審を開始すべきだとの反対意見を書いた。2023年に再審が開始され、2024年に袴田さんの無罪が確定した。
どの事件でも、訴訟記録や鑑定書、全ての判例評釈を集めて読んでいた。論点が整理された調査官報告書だけでも膨大な量だが、宇賀氏は妥協しない。
「170以上の判例評釈を書いてきた研究者の立場からすると、調査官報告書だけで意見を書くことはあり得ないわけです。学者は判例を議論の出発点にはしません。『判例にこうあるから』という思考はせず、クリティカルに判例を読む訓練をしています。キャリア裁判官と最も違うのはそこです。判例と違う考え方に触れる必要があるんです」
そんな宇賀氏の執務室は資料で溢れかえっていて、本棚も増設していた。ある裁判官には「感心するけど真似できない」と言われたそうだ。
この姿勢で、軸となっているのは憲法だ。違憲立法審査権を持っている最高裁判事自身が憲法を守るべきだと考えた。
<憲法76条3項「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」>
最高裁判事の学者枠は、推薦などで決まる弁護士と違い、突然の最高裁からの電話で打診を受けた。「青天の霹靂でしたが、山口厚先生が『ハードだが、得難い経験である』とおっしゃっていたのを思い出しました」。歴代判事の回想録などを読み返したほか、故園部逸夫氏や藤田宙靖氏には任官前に直接会いに行き、心構えを請うた。
誠実に、自分の良心に従って、判断すること。時には、原告が自分や自分の家族だったら、と想像した。夫婦同氏制訴訟では、婚姻に夫婦同氏の制約を課すのは違憲だという反対意見を残したが、「婚姻する時に『私は氏を変えたくないから、あなた変えて』と言われたら、『はい、わかりました』とすぐ言えるか。氏を変えるのは、そんなに簡単なことではないはずです」と振り返る。

