24歳
赤文字以外で道がひらけたきっかけ
可能性と気づき。
『SPRiNG』に掲載された、モノクロの写真。それまで私が出ていた赤文字系の雑誌は、絶対的に笑顔が求められたんだけど、そうじゃない表現だったその1枚をきっかけに、カルチャー誌やモード誌のお仕事も増えていった。
25歳
赤文字を辞める選択
カバーガールの賞味期限。
当時はカバーガールって賞味期限が約2年だったんだよね。だから、自分で決めて赤文字は25歳で辞めちゃうんだけど、その後に出られる雑誌って日本はコンサバ誌しかなくて。コンサバは何か違うって思ってたから、進んでいく場所がなくなっちゃって。当たり前だけど仕事が少なくなっていくから、「私、終わった」ってすごく焦ってた。
28歳
仕事がゼロにまでなくなった
モデルを続けるなら残ってる道はコンサバ誌をやるしかなかった。それかもう、芸能人生を終わりにするか。分かってるけど、どうしても気が向かなくて。好みもあるけど、自分自身で輝けないと思ってたから。仲のいいみんなが、綺麗にコンサバの道を進んでいく中で、私だけ取り残されていった。
ただ時間が過ぎてた。
今思うと本当に残念なくらいただ時間が過ぎていってた。今だったら、それに対してもうちょっと何かできたりするんだろうけど、その当時は本当に何もできなくてただただ時間が過ぎていた。
「コップに水が半分あります。半分だけ足していっぱいにするか、もう全部捨てて新しい水を入れたいか。今までの部分は捨てずして、半分足すなら保険はある。でも伸びしろって、それだけになる。全部捨てたら何も残ってないけど、新しいものがいっぱい入ってくるよ」
私の仕事がどん底、ゼロになったときに社長から言われた言葉。「梨花はどっちがいい?」って聞かれたことを今でも覚えてる。
そこでプライドは捨てたっていうことかな。
30歳
もう一度、下積みから頑張ってみよう
とがった大人カジュアル誌『GLAMOLOUS』が創刊。 1世代、2世代年下の後輩モデルたちと一緒に撮影する現場で。いろいろ思うことはあるけれど、このチャンスは絶対に生かそうと思ってた。これまではただ時間が過ぎてしまっていたけど、ここで踏ん張るしかないなと思った。そこから本当に文字通り、どんな仕事でも全て受けて何でもやった。
うだうだしたり、愚痴が出てき始めてるときって、かすむし、くすむし、エネルギーも減っているんだと思うの。いろんなものを失って何クソ! でやってるときのほうが人間って強くて、がむしゃらに進んでいける。
31歳
カバーモデル、バラエティへ
『sweet』を軸にまた、雑誌を始めたけど、すぐに表紙ができたわけじゃなかった。でもまた、私服ページの反響のよさがゲームチャンジャーに。少しずつだけど認められていく実感があったんだよね。そして、31歳で『sweet』の表紙を飾れて。もう一度、カバーガールになれた!
31〜36歳がバラエティ全盛期。モデルとしても10誌ぐらいの雑誌の表紙を常にルーティンでやっていて、コンビニに行くのが楽しみだった。自分の表紙を本棚の前列にめちゃめちゃ並べて置いたりして。そんな感じを結構何年間かやらせてもらってた。やっと報われた。満足度があった時期だった。
バラエティはすごい好きだったの。イメージがよくないから、やっぱりバラエティに出るのをやめたほうがいいんじゃないっていうことはすごく言われたんだけど、自分の意思でやってたから。ただ途中でネジがおかしくなっていっちゃって。自分を演じて、犠牲にして、笑いをとっていくっていうのがエスカレートして、麻痺していって——。モデルの仕事もやってたから、寝る時間は移動中、みたいなありえないスケジュールになるのね。そうするとやっぱりなんか壊れていっちゃうんだろうね、精神が。だからこう、仕事なくても壊れてくけど、売れ過ぎても壊れてくっていう怖い世界だよね。
仕事がなくても壊れていくけど、売れ過ぎても壊れてく。
カバーモデルの次の目標だったビルボード
36歳
「テレビを全部辞める」という選択
36歳のときに結婚。子どもが欲しかった。けれど、流産を繰り返す日々——。いろいろと検査をしても、明確な原因はないという息詰まる事実に、こんなにも望んでいる子どもが授からないかもしれないという未来に、本当に気持ちが真っ暗になっていった時期。当時は深夜まで仕事をして、朝5時に寝る、昼に起きてまた仕事に行くってサイクルだったから、子どもを授かるためにも、メンタル的にも、きちんとした生活にしなきゃダメだと思って、バラエティを全部辞める決断をした。自分を奮い立てるような、それでいて祈るような気持ちで。できることは全部やりたかった。絶頂のキャリアより、出会いたかったのはひとり——。
何を幸せとするか。
38歳
モデルから、「母親」に
私ね、自分の人生プランとして、「カバーガール」と「お母さん」って二軸だけなんだよね。
40歳
「ハワイで子育てをする」という選択
海外に移住しようって決めた理由は“100%息子の子育て”。
50歳
カリフォルニアへ移住
選択と決断。
自分のこと、子どものこと、いつでも何を選び、どう進んでいくか。何か絶対的なものが見えているわけではないけれど、自分のなかの“違和感”に正直に。そのとき、そのとき、感じることに真摯に向き合っているだけ。ハワイからカリフォルニアに移動したのも、その選択のひとつ。
子育てが一段落して自分の時間をもう一度作りたいと思った。
53歳
息子が15歳になる
親離れ、子離れの始まり。
私がこれまでしてきた選択がよかったのか? 不安にならないといったら嘘になるけれど。彼の人生のなかでよかったと思える経験になってくれたらな、と思う。ここからは彼は彼の人生を、私は私の人生を歩むことが、少しずつ増えていくのだろう——。息子が巣立った後をイメージしながら、残りの人生をどう彩るか、そんなことを考え始めた53歳の今日このごろ。
選択を重ねること
それは人生の輪郭を
整えていく作業に等しい
何に心惹かれ
何を求めて
何を残したかった?
大切なものを
きちんと掴み取って
梨花
P1-4 All photograph by『NO. 22 RNKA』(SDP), Courtesy of STARDUST PROMOTION
P5 上 photograph by ITTETSU MATSUOKA from otona MUSE AUGUST ISSUE 2026
P5 下 photograph by YUKI KUMAGAI from otona MUSE AUGUST ISSUE 2022
P6 photograph by TISCH from otona MUSE JULY ISSUE 2015
otona MUSE 2026年9月号より

